たため、出來事は錯雜して、時の長崎奉行松平圖書をはじめ佐賀藩の重役五名が責をひいて切腹したといふ事實である。當時庄左衞門は公用を以て江戸に在つたが、「英船事件」發生に遭ふや滯留を命ぜられ、英文の通譯に當つたといふから、ブロムホフに就學する以前にも若干は獨習してゐたかと思はれる。
 いづれにしろ本木一家の系圖にみても、庄左衞門の時代となれば、海邊は急激に多事であつた。從つて彼の譯書にも「海岸砲術備用」とか「海程測驗器集説」等があつて、外交海防に盡すところ多かつたし、のちに父良永と共に正五位を贈られてゐる。
 庄左衞門歿後、洋學年表では嘉永元年の項に「昌造名永久――庄左衞門の孫なり」といきなり出てきて、昌造の養父昌左衞門はまるで缺落してしまふ。しかし昌左衞門が庄左衞門の實子であり本木家五世であることは、三谷氏の家系圖のごとく私は信じたい。若し庄左衞門に男子がなかつたならば、昌造の母繁を北島に嫁がせることをせず、養子を娶せたであらうからである。昌左衞門が何故年表にあらはれぬか、見るべき事蹟がなかつたからかどうか、私にわからぬが、「昌造――庄左衞門の孫なり」といふからには、如電も昌左衞門の存在
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