はないだらう。前記したやうに新撰洋學年表の著者如電の祖父玄澤は、書中にもみえるやうに庄左衞門の友人だし、私は後者を信じたい。それに證據の一つとしてヅーフの「日本囘想録」には一八一七年、文化十年まで庄左衞門健在の事實が記録されてゐるからだ。一八一七年は甲比丹ヅーフが日本滯留十九年で、バタビヤへ引きあげた年である。しかもこの記録たるや、後にみるやうに庄左衞門の存在は、和蘭商館長ヅーフにとつては忘れがたい敵役であるし、彼が※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々の思ひで日本を退散しなければならぬ動因ともなつてゐるからである。
 本木四世庄左衞門は、のち大通詞に進み文政二年には名村八右衞門と共に、「總通詞教授」を命ぜられてゐる。何の教授であるか誌されてゐないが、庄左衞門は蘭語の他に佛蘭西語を習得してをり、殊に英語において先達であるから、たぶんそれらの教授と思はれる。庄左衞門の著書のうちでも記憶さるべきものは、文化八年二月の「諳厄利亞興學小筌」(英語小辭典のこと)及び同年九月、楢林、吉雄と共につくつた「英吉利言語集成」等であつて、恐らく日本における英語の歴史上特筆されるものと思ふ。「英吉利言
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