年六十で死んだ。速水敬二氏の「哲學年表」にも同年科學者の欄に「本木良永六〇」で歿すとある。良永は先代の遺言をついで、安永六年小通詞となり、のち進んで大通詞となつた。洋學年表では「――本木氏の中興にして、オランダの天學此人に因て起る」とある。
良永はよき通詞でもあつたが、秀れた學者でもあつた。澤山の著譯書があつて、主なるものを「哲學年表」から拾つてみると、安永三年「平天儀用法」「天地二球使用法」天明元年「阿蘭陀海鏡書」天明八年「阿蘭陀永續暦」寛政四年「太陽窮理了解」等があつて、とりわけ最後の「太陽窮理了解」説は、はじめて地動説を日本に紹介したものとして知られてゐるし、その後に來る天文學の道を拓いたものであらう。日本に始めて太陽暦が採用されるについて大きな挺子となつた「暦象新書」の魁をなすものであり、「暦象新書」の著者で有名な、通詞出身の、のちに柳圃と號し中野姓を名乘つた志筑忠雄は、良永の弟子であるのにみても理解できよう。
良永は義父良固に肖て、むしろ勤直な學者肌だつたらしい。彼が幕府に「太陽窮理了解」説の譯述を命ぜられた(これは安永三年に「天地二球使用法」を譯述して呈出したのに基いて
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