ろ、「蘭學の發達」にしろ、武平次なる人物はみえず、多くの傳記が庄太夫から二世は初代仁太夫となつてゐる。しかし三谷氏の家系圖でみれば、初代仁太夫、つまり「市郎助」が書いた庄太夫の墓の碑文に「元祿十年十月十九日本木武平次之を建つ」とあるのださうだから、血縁か否かは知らず、とにかく武平次なる人があつたにちがひない。通詞だつたか否かも私には知る術がなく、いまは洋學年表に從つて、庄太夫死後は十數年打ち絶えて、七歳の市郎助二十二歳ではじめて登場してくるのについてゆかう。
 本木二世初太夫(三谷氏では三世)は寛延二年五十六で死んだ。庄太夫と同じくのち剃髮して良固と稱したが、努力にも拘らず生涯稽古通詞から陞れなかつたが、その良固が蘭學者としては知られてゐるのが面白い。洋學年表享保元年の項に「下欄ハ學者ノ忌日ヲ記入スル處ナレドモ第一年ハ現存者ヲ列記ス如左」とあつて、西川如見六十九歳、新井白石六十歳、細井廣澤五十九歳、野呂元丈二十四歳などと、年齡順にきて、「長崎人本木仁太夫二十二歳」と書いてある。
 良固の生涯でもつとも特筆すべきことは、延享二年、通詞西善三郎、吉雄幸右衞門と共に、和蘭文書を讀んでもよろし
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