物は當時珍重されたのにちがひない。周知のごとく將軍家光は切支丹禁制の施政を強化するために、平戸にあつたポルトガル、支那、和蘭等の商館を、長崎港の沖合に島を築いて、そこへすべてを收容したが、一方、貿易事業は日を逐うて旺んになつていつたし、フオン・シーボルトの「日本交通貿易史」によると、「此時(一六七一年、寛文十一年)は、イムホツフ總督(東印度會社の支配權を握る蘭印總督のこと)が、日本における和蘭貿易の黄金時代と云ひたる頃なり」とあつて、日本の輸出高は和蘭のみで、年々四五十萬兩にのぼつたころである。しかも日本から積出されるものは最初に黄金、つぎは銀、つづいて銅といふぐあひで狡智なヨーロツパ商人どもに乘ぜられて、怖るべき勢で貴金屬を失ひつつあつたのだから、幼稚な幕府もおどろいて、それらの危險を防ぐ施策の一つとして、より澤山の和蘭通詞をもとめてゐたと考へられるし、幕府は松浦侯に命じて庄太夫を召抱へたのだと察せられる。
 庄太夫は、諱を榮久といひ、のち剃髮して良意といつた。四十一歳で小通詞となり、四十六歳で大通詞に陞つた。彼が六十八歳のとき、幕府は和蘭通詞に目付をおく制度を設けたが、庄太夫はえら
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