大阪の洪庵塾へ入つたのは同二年であるが、當時も「内塾生」だけで「五六十人」からあり、他に通學生もあつたといふから恐らく百人を超えてゐたらうし、「緒方の塾生」といへば大阪では有名だつたと謂はれる。「福翁自傳」などでみると、某大名が洪庵に貸し與へたある蘭書を、諭吉ら塾生一同が徹夜で手寫して返したなどの話がある。この場合もその原書が高價でもとめがたいといふところに力點があつて、それほど事自身が祕密でも法規に觸れたものでもないやうである。
 洪庵が「當今必要の西洋學者を育て」云々は、著者も云つてゐるやうに勿論「西洋かぶれの學者を育てる」意味ではなくて、最初の黒船來航以來、何としても泰西の文明をわがものとして、外夷に備へる必要からであるが、緒方洪庵は文久二年に西洋醫學所頭取となつた晩年わづかを除けば、生涯を民間の醫者としてまた蘭學者として功勞のあつた人で、ほとんど政治的面には出なかつた人であり、杉田成卿も蘭學者ではあつたが開國論者ではなかつたと「箕作阮甫傳」はつたへてゐる。
 つまりこれらを綜合してゆくと、蘭書の購讀とか勉強とかいふ問題は、まことに微妙なものだつたことがわかるやうだ。泰西の文明を
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