止もきかず、横濱近くの小柴沖まで進入してきたのである。當時幕閣では「ぶらかし案」以來、まだ確乎たるものがなかつたし、「二月四日、兩度老中へ逢候處――伊賀守(松平)專ら和議を唱え候、林大學、井戸對馬にも逢候處、兩人共墨夷を畏るる事虎のごとく、奮發の樣子毫髮も無之、夜五ツ時まで營中に居候得共、廟議少しも振ひ不申、いたづらに切齒するのみ」と、水戸齊昭の手記にみえるが如き空氣であつた。伊賀守は三奉行の一人、林、井戸の兩者は既にペルリ應接係を任命されてゐる當時者である。三ヶ月前、ロシヤ使節に對して、筒井、川路の應接係を長崎に差遣するときも、硬派の中心齊昭の頑張りで「通商拒絶」を決意したが、そのときはまだ「以夷制夷論」などいふものがあつた。しかし三ヶ月後には「通商やむなし」といふ風にもはや正面を切つた論が強かつたやうである。「ぶらかし」とか「御武備御手薄之故」とか、他動的なものではあつたが、「通商やむなし論」は多數だつたらしい。アメリカ應接係の一人松平美作守などは、なかなかハイカラで、第一囘會見のときアメリカ海軍軍樂隊の奏する洋樂に、手足をジツとさせてゐることが出來なかつたと、ペルリの「日本遠征記
前へ 次へ
全311ページ中198ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳永 直 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング