らずといふ有樣であつた。――此頃に於ける我國の國情は鎖國の説專ら旺盛を極め、異船とさへみれば、無暗と砲撃を加へるといふ状態なりしが、昌造氏は毫も之に心を藉さず、――心靜かに泰西の工藝技術を研究してゐた。
この文章はどのへんまでが「印刷文明史」の著者の見解であり、どのへんまでが昌造の友人及び門人の懷舊談であるか、はつきりしない。しかし昌造が「心私かに」開國必至を信じて、備へるためには彼らの文明をわがものとしなければならぬと考へてゐたこと、專ら工藝技術に興味をもつてゐたことが強調されてゐる。この昌造の工藝的な特徴は洋學年表も萬延元年の項に書いて「米魯初航以來、五ヶ國條約に至る其通辯の任に當りし者堀達之助、森山多吉郎、本木昌造也。堀は學力あり、蕃書調所教授、森山は才氣あり、外國通辯頭取、而して本木は巧智に富む、製鐵所取締、三人適所に伎倆を顯はせり」と云つてゐるが、とにかく以上でみたところ、昌造らの勉強にも拘らず、ペルリやプーチヤチン來航當時の外國知識といふものは、いろんな制約で、自から狹いものであつたらう。
ところがペルリやプーチヤチンの來航は、從來の通詞知識の限度を超える劃時代的なもの
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