四

 ペルリや、プーチヤチンの來航當時、昌造などが、どれほどの外國知識をもつてゐたかも明らかでない。通詞であつたから、出島の和蘭人を通じて、ごく大まかな海外ニユースなどは、傳へきいてゐただらうが、その和蘭船も年に一度しか入つて來ないのだからたかが知れてゐる。學問的な知識となれば、初代庄太夫以來、家藏の書物も多かつたらうから、當時の日本人としては、最もひらけた方であつたらうが、それも蘭書に限られてゐた。またその蘭書でさへ自由ではなかつたし、蘭語以外の書物は嚴禁されてゐた。呉秀三の「箕作阮甫」に據ると、このとき「長崎談判」の日露國境協定について、日本側全權川路左衞門尉のために大通詞森山榮之助が長崎奉行所に押收してある英書を飜讀して北邊事情を紹介したが、隨員の阮甫がそれを川路にひそかにきいて、是非その英書を讀みたいと所望すると、川路は榮之助が可哀さうだから止めよと答へたと書いてある。つまりそれが他に洩れれば、榮之助は禁を犯した者として處罰されねばならぬからであつた。
「印刷文明史」は、明治時代まで傳つた本木家藏本を掲げてゐるが、たとへば「海上砲術書」「和蘭地理圖譜」「萬國
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