法」による活字製法は、つまりアルハベツトが二十六だといふこと、漢字のやうに字畫が複雜でないことが原因の第一だといふことになる。したがつて、たとへば慶長年間に、「きりしたん活字」がそのまま長崎にとどまつたとしても、どれくらゐ發達しただらう?
 私は思ふのだが、同じ和蘭からレムブラントなどの銅版術が、司馬江漢を通じて渡來したのは天明三年だつた。一七八三年で、昌造の「植字判一式」購入に先だつ六十年餘である。そして日本の銅版術は江漢以來、亞歐堂田善などがでて、すくすくと成長したが、昌造らの「流し込み活字」は、彼の苦心にもかかはらず、なほ二十年餘を經なければならなかつた。思へば、西洋印刷術の渡來は、遲過ぎるやうな、また早過ぎるやうなものであつた。

      二

 昌造の、最初の「流し込み活字」は「植字判一式」購入より三年後の嘉永四年に一應できた。そして、その「流し込み活字」の日本文字と、輸入の蘭活字とで「蘭話通辯」が印刷されたのだと謂はれてゐる。
「流し込み活字」の製法は、昌造の場合も、ヤンコ・コステルなり、グウテンベルグなりの「手鑄込み器」と同じ方式を逐つたものだと想像できる。つまり、最
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