」云々と。
しかし聖明を蔽ひ奉る幕閣の「鎖國的」戀着は、まだまだ強固なものがあつたので、「和蘭の妨害」などは大したものでなかつたらう。そして半年後に失望のうちに長崎を退帆したニコライ・レザノフは、幕閣も、蜀山人も、司馬江漢も、想像できぬやうな決心を抱いてゐたのである。彼は一旦ペトロポウロスクまで引揚げ、解散すると、使節から早變りして露米會社重役となつて、單身アラスカへ旅立つた。そこで露米會社の全能力を擧げて艦船の建造、兵員の訓練をはじめ、文化二年七月の日付で本國政府へ上奏文を奉り、「日本遠征」の計畫を明らかにしたといふ。まづ樺太島を襲つて日本人を追放し、蝦夷本島を破壞し、さらに日本本土の沿岸にも出動して、日本帆船を拿捕しようといふ計畫で、このことは既に長崎退帆の歸途、一行の海軍大佐フオン・クルーゼンステルンが、沿岸の要衝を密かに測量したりして、海岸防備の脆弱を探査したといふことであつた。そして若しロシヤ本國政府がレザノフの計畫に同意を與へて、順調に進んだとするならば、そしてまたレザノフやフオン・クルーゼンステルンが觀察したやうに、わが日本人が弱かつたならば、英國が支那に對して阿片戰爭
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