舍の藪醫者みたいになつてゐた。
つまり、私の主人公はえらくなくなつてしまつたのである。大鳥が鉛をはじめて活字のボデイとして實用化したり、木村が電胎法で最初の活字字母を作つたとしても、それとは無關係に、嘉永の初期からこつこつと、二十餘年をつづけたといふ昌造の辛苦の事實を忘れたわけでもないが、彼の理想や觀念は著書にも見ることが出來ず、何かトピツク的なことがなければ工藝のことなど、それ自體としては小説にはとらへどこがない氣がするのであつた。
私は主人公を見失つて、もう止めようかなど考へながら、漫然と洋學の傳統など調べては日を暮した。しかし、しばらく經つうちに、幕末の、殊に安政以來の洋學はその政治的事情から、ひどく實利的に赴かねばならぬといふことを知つた。天保十二年に渡邊崋山が自殺し、嘉永三年に高野長英が自刄してから以來といふもの、洋學者たちはただその實利性のみに頼つて生き得たといふ傾向は、昌造たちにも影響せずにはゐられまいと考へることが出來た。たとへば昌造の「新塾餘談」の序文にある――素より文字を以て論ずるものに非ず、見る人その鄙俚を笑ふこと勿れ――といふ文句も、そんな眼でみれば意味が無くはない。
それに工藝とか科學とかいふものは、それ自體が、いはば理想の顯現ではなからうか。觀念の世界とはちがつて、ただ才能があるだけで、或は環境や條件のせゐで、ないしは功名心や利害關係だけでも、發明や發見や改良をするやうな偶然も、けつして尠くはないにちがひない。しかしそれでも根本を引き摺つてゐるものは、それぞれの差異はあれ、大きく云へば理想にちがひなからう。昌造の著書がみんな「雷除けの法」とか「流行眼を治す法」とかばかりであつたとしても(いや私は全部讀んだわけでないから斷定もできぬが)、それも彼の理想の一端ではなからうか。當時の世情からすれば、「石鹸を製する法」でも、「水の善惡を測る法」でも、新知識であつたし、彼の「緒言」にあるやうに讀者がもとめたものであらう。殊に近代活字創成のための二十年間の辛苦をひつぱつていつたものは、單なる功名心ではないにちがひない。
私の頭の中では、以前とはだいぶちがつた形で、昌造のイメーヂが映りはじめてきた。私の主人公はえらくなくはないが、つまり偉人などといふものではなかつた。これといふ奇行も特徴もないが、器用で、熱心で、勉強家で、法螺もふかず、大それた慾望も持たず、ひたすら世のために、人のために役にたつことを理想としてはたらいた、眼のきれいな痩せた老人だつた。
こんな老人にとつては、「活字の元祖」爭ひなど無用にちがひない。それを爭つてゐるのは他ならぬ私自身であつた。大鳥圭介が鉛を活字ボデイに實用化した功績も讃へようではないか、川本幸民が電胎法を祖述した功勞にも感謝しようではないか。木村嘉平が島津の殿樣に頼まれて、電胎法による活字字母を創つた辛苦も賞讃しようではないか。發明とか改良とかいふものが、すべてそんなものなのだ。天氣晴朗なる一日、何の誰がしが忽然と發見するやうな、そんなものではない。グウテンベルグの發明にも、その前後に澤山の犧牲的な研究者があつたればこそだ。本木はたまたまその最後の釦をおした代表者だつたのである。そんなつもりで私はこの老人の傳記を書けばよいのだ。私はひとりでに、をかしくなつてきた。私が元祖爭ひをして憂鬱になつたのは、じつは私が勝手に頭の中ででつちあげてゐた、似もつかぬ小説の主人公のせゐだつたのである。
ある日、私はくつろいだ氣分で「遠西奇器述」の寫本を讀んだ。これは幸民が口述したものを、門生田中綱紀と三岡博厚とが筆記したものである。門生田中は凡例の一に、「此篇ハ朝夕講習ノ餘話ヲ集録ス故ニ往々錯雜ヲ免レズ其説多クハ一千八百五十二年我嘉永五年撰スル所ノ和蘭人フアン・デン・ベルグ氏ノ「理學原始」ヨリ出ヅ直寫影鏡ハ數年前吾師既ニコレヲ實驗シ蒸汽船ハ本藩已ニコレヲ模製ス他ノ諸器ハ未歴驗セズト雖其理亦疑フベキコトナシ」と書いてゐる。田中は何藩か私にわからぬ。この寫本に年代も記されてないが、新撰洋學年表によると嘉永元年の項に「川本幸民始て寫眞鏡用法を唱へ出し又燐寸の功用を説く」とあり、嘉永四年の項に幸民の著述例のうち『「西洋奇器述」等の著あり』とあるから、この凡例の「嘉永五年云々」は少し怪しく、も少し以前だつたかと思はれる。とにかく寫眞や蒸汽船やを説いてゐるうちの一つに「電氣模像機」といふ題で口述してゐるのがそれであらう。
「此術ハ一金ヲ他金上ニ沈着セシムル者ニシテ金銀銅鐵石木ヲ撰バズ新古ニ拘ラズ其上ニ彫刻スル所ノ者ニ銅ヲ着カシメコレヲ剥ギテ其形ヲ取リ以テ其數ヲ増ス次圖ハ其製式ナリ」とあつて、以下は幾つも圖解して綿密に説いてある。今日からみればごく初等な電氣分解の原理であつた。一つの容器に稀硫酸と他に
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