刷機は活字とだいぶ異ふのである。「スタンホープ式」も「ワシントン式」も「マリノン式」も、日本へきてもそのままで※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]轉することが出來た。しかし活字は、文字は、日本へきてもそのままでは通用せぬのである。
しかも活字は印刷術の主體である。嘉永三年に「スタンホープ式」が渡來しても幕府の物置小屋で赤錆びるよりなかつたのは當然であらう。昌造らの苦心はまだつづかねばならない。江戸の嘉平も幕府の眼を避けながら手燭を灯した密室で慘憺しなければならぬ時期であつた。
そしてまた日本ぢゆうの科學者たちが刻苦精勵しなければならぬときであつた。日本の近代活字は自分ひとり誕生したのではなかつたからである。他のいろんな近代科學の誕生とつながりあつてうまれたからである。船や、大砲や、汽關車や、電氣や、それから近代醫術や、太陽暦や、丁髷廢止やと結びあはねば誕生することが出來なかつたからである。つまり明治の維新なくしてはうまれることが出來なかつたからである。
日本の活字は西洋の活字とくらべて生ひたちがまるでちがふ。それは前記したやうに日本の活字は木版などのまつたく手業によるかでなければ電胎法といふ高度の化學によるかしかないといふ自身がもつ宿命と同時に、幕末のごくわづかな年月と政治的大嵐のなかで誕生したといふ世界無比の特徴をもつてゐるのだつた。
したがつて私の主人公は一人昌造のみではない。まだ「江戸の活字」も行衞不明のままである。昌造の活字を大阪から東京にひろめ、印刷機械を日本で最初に製作した平野富二についても述べねばならぬ。日本最初の新聞人岸田吟香が書いたといふ「ヘボン辭書」の平假名が上海でどういふ風にして作られたかを探らねばならぬし、日本の製紙業がいかにして今日の基礎を築いたかも述べねばならぬであらう。福澤諭吉らによつて代表される明治初年の洋學者の行衞や、當時東洋の文化都市上海と長崎の交通的事情やも、日本の活字誕生にとつては缺くべからざるものであつて、讀者と共に私はこの後半を、昌造萬延元年以後の事蹟とともにみてゆきたいと考へるのである。
[#改丁]
作者言
この小説をどういふ氣持で書くやうになつたかは、作の中で述べたつもりである。
しかし、ありていのところ、書く以前も、書きはじめてからも、しばらくは混沌としてゐた。本木昌造だけの傳記的なものとするか、活字ないし印刷術の歴史を中心とするかについて迷つたが、それはどうやら後者におちついた。作にもそれはあらはれてゐるつもりであるが、何にせよ一ばん閉口したのは、いろんな點で作者に豫備知識が至つて尠いといふことであつた。一つの文明品の創造なり發展なりには、縱にも横にも、永く、廣い歴史があつて、それが洋の東西を問はずかけめぐつてゐるので、何か不可解なことが出てくると、そのたんびに作者は右往左往しなければならない。
たとへば長崎に渡來した鉛活字を、海のむかふは別とすれば簡單だらうと思ふけれど、それが人間でなくて、一つの器具といふことになると、どういふわけか區切ることが出來ない。器具とか物質とかは、人間とちがつて「死」といふものがないのであるから、滅法に生命がながい。器具とか機械とかにも時代とか社會的事情とかの制限があるし、他の器具や機械との關係や、また交通などにも制限されるけれど、人間に比べると至つて限界が廣い。しかも一つの文明品の歴史には、永い時間と地球いつぱいの廣さで、黒い眼や、茶色の眼や、青い眼や、いろんな人間個々の歴史も刻みこまれてゐる。
つまり、作者は多少なり專門的知識を得なければならぬ。學者にならなければならぬ。これが作者にとつて閉口である。右往左往させられる原因の一つである。大袈裟にいふと東西の歴史、世界の交通史、科學の發達史などまで充分知つておかねばならぬだらうし、東洋語は勿論、西洋語も知つてゐなければならぬだらう。作者はこんどいろいろと知識を借りた專門的書物のなかで、それぞれの方面の歴史學者たちが、支那語は勿論、朝鮮語、印度語などの東洋文字から和蘭語、ラテン語などの西洋文字に至るまで、原文を讀解してゐるのに非常に感服した。しかし作者のやうに西洋史はおろか、東洋史さへウロおぼえでは、專門的どころか、普通的なところで大變暇 つてしまふのである[#「暇 つてしまふのである」はママ]。のみならず、普通的な興味と專門的な興味とがごつちやになつてしまふ場合もあつた。
じつを云へば、さういふ知識は十年くらゐ身體ごと浸りこむべきであらう。その上でおのづから出來あがつてゆくものだらうが、さうすると作者は果してそれまで生きてるかどうかわからぬといふ懸念がおこる。だからかういふ主題に首をつつこむことが既に問題なのであらうけれど、しかしまた小説の眼でみる活字の歴史
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