た。コロンブス發見以來日の淺いこの大陸へ移住してくる人々は、しかも過去十八世紀の文化の傳統を持つてをり、そしてすべての人々が獨力で新らしい天地を築きあげようといふ熱意に燃えてゐた。フランクリンのわづかの活字はさういふ人々の生活のなかで、新らしい秩序をつくり、町の發展と方針を定める輿論の寵兒とならねばならなかつた。ケース二三枚の古活字は木彫頭字の圖案化や手描きの彩色などしてゐる餘裕はない。肝腎のことは活字自體があらはしてゐる文字の正確さである。活字が表現する言葉と思想である。古風な「イタリツク」や「ローマン體」よりも、正確で端的な「ニユウスタイル」である。豐富な言葉を敏速に表現し、しかも大多數に行渡ることが必要であつた。フランクリンの古活字はたちまち磨滅し、ヨーロツパ渡りの古風なハンドプレスは使用に堪へられなくなつたばかりでなく、不便でもあつた。しかも活字鑄造所はフイラデルフイアは勿論アメリカぢゆうにさへなかつた。彼は活字を買ひに大西洋を渡つてイギリスへ再度旅行したが、十九歳のとき自分で活字鑄造法を考案したと「自傳」で述べてゐる。「アメリカには活字の鑄造所はなかつた。――けれども私は鑄型を考案し、手許にある活字を打印器に使つて鉛に打ち込み、かうして却々上手に足りない活字を揃へたものだ。また時折はその他種々のものを彫刻し、インキも作り――」といふので、ここでいふ打印器とは種字の意味であらう。西洋の印刷歴史書では、彼がロンドンの活字鑄造所で見覺えた趣きも書いてあるが、「自傳」に書かれてゐる限りでは簡單すぎてグウテンベルグ以來の鑄造法にどれほどの改良を加へることが出來たかは判斷できない。ただ彼が周知のやうな電氣發見その他の大科學者であつたことからして多少の改良を加へただらうと想像するだけであつて、たとへばオスワルドの「西洋印刷文化史」もこの點詳細な記述はない。しかし今日のこるフランクリン考案の印刷機は多少の新工夫を加へたものだとされ、「印刷文明史」はこの寫眞を載せてゐる。巨大な木製のハンドプレスで、レオナルド・ダ・ヴインチが最初に考案した印刷機に酷似してゐる。[#ここから横組み]“Benjamin Frankrin, printing press”[#ここで横組み終わり]と誌された機臺の上には、それを組みたててゐる五人の人物が小さく見えるくらゐだから、これのハンドをひくときは恐らく數人がかりだつたにちがひない。
 しかし私の考へるところでは、フランクリンが「世界印刷術中興の祖」と謂はれる所以のもつとも大なるものは、活字や印刷機の多少の改良よりは、活字や印刷術を人々の日常生活のなかにひつぱりだしたこと、たとへばフイラデルフイアの町で、町有志の會合の記録などを、この青年書記が忽ち印刷にして配布し、その翌朝は町有志の人々が洩れなく昨夜の激論の推移と成果を知ることが出來、更に次の會合のため各自が一層己れの考へを進めることが出來るやうな印刷物を作つたこと、つまり活字のために新らしい任務を拓いた點にあるのであらう。フランクリンは圖書館をつくり、新聞をつくり、志ある人々をたすけてアメリカぢゆうに印刷所が出來るやう盡力した。しかし書籍組合創立や印刷所建設やではヴエニスのマヌチウスも、ウエストミンスターのカクストンも、フランクリンに劣りはしなかつたのだから、つまりフランクリンの功績の大なる所以は、彼の圖書館の建設方法や、同じ著述でもその内容や、新聞といふ獨自の形式と内容や、印刷所建設でもその經營方法と作業規律の内容や、その性質に相違があつたのである。それは古いヨーロツパ大陸ではみることの出來ない新らしい人々の集團と生活とに結びついた成果であり、グウテンベルグの活字をして過去三世紀には考へることも出來なかつた庶民の日常生活のなかへ、信仰と過去の知識と裝飾のみではない、今日と將來のための生々とした、しかも涯しないほどひろい大海原へ躍りださせたといふことにあるであらう。
 そしてそこにこそ第二期の活字が花ひらく要素もあつた。一七九六年、フイラデルフイアのアダム・ラメーヂが世界ではじめての鐵製のハンドプレスを作り、それと應へるやうにロンドンでも數學者スタンホープが「スタンホープ式ハンドプレス」を完成して伯爵を授けられた。一八一三年にはフイラデルフイアのジヨージ・クライマーが「コロムビア・プレス」を作り、一八二一年には紐育のラストとスミスが「ワシントン・プレス」を作り、一八二〇年にはボストンのダニエル・トリードウエルが世界最初の足踏印刷機を發明した。木が鐵にかはつたことや手が足にかはつたことは何でもないやうでゐて、じつは人間の動力といふものへの新らしい考へ方の發展がひそんでゐよう。そしてこのとき既にイギリス人ウイリアム・ニコルソンやドイツ人フリードリツヒ・ケーニ
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