的な努力をもってすれば、現在日本劇壇の中堅を形づくる最も優秀な俳優の一団を、この程度の小康に安んぜしめなかったに相違ないのであるが、自由劇場の再興と築地小劇場の新運動とを秤にかけてみれば、後者において前者に数倍する文化的使命が見出されるのはもちろんであろう。
アントワアヌやオットオ・ブラアムの創始したヨーロッパの自由劇場運動も、今日では遠い演劇史的事実となった。ウィウ・コロンビエを閉鎖したジャック・コポオも、今は辺陬《へんしゅう》の地にあってコメヂア・デラルテの研究に没頭しているそうである。一時ドイツ劇壇に覇を唱えたラインハルトも、ついに新興芸術たる映画に膝を屈した。かつて先生の師事せられたスタニスラウスキイの一座も、現在の労農劇界においては右翼的高踏的なアカデミカル・シアタアとして、その功績を回顧的に論ぜられがちである。その間にあって、ひとり小山内先生のみは、「検察官」を「桜の園」を「どん底」を、「海戦」を「夜」を「空気饅頭」を「マンダアト」を上演した築地小劇場の主宰者として、日本における最もラヂカルな劇場人[#「劇場人」に傍点]としての苦悩に充ちた体験を、最後まで味わいつくされたのである。もちろん、現在の資本主義社会機構のもとにおける新劇常設館としての築地小劇場が、その活動範囲ないし演目選定方針において、ただちに一部左翼的な演劇理論家を満足せしめるようなポリチカル・シアタアとしての傾向を帯びなかったとしても、これらの左翼理論家の痛罵を浴びながら、なおかつ、隠忍自重して多難な新劇劇場の経営に努力し、他日の大成に資すべき幾本かの貴重な杙《くい》を打って行かれたところに、先生の劇場人としての現実的な悩みと偉大な感情と意志とがあることを、誰が拒み得よう。ことに改築後の第二期運動における主事としての活躍は、熱情そのものの結晶であって、あるいはこれが近来とかく薬餌《やくじ》に親しまれる機会の多かった先生の死期を早めたのではないかとさえ考えられる。
小山内先生を失ったことは、近時ようやく発展向上の途に向いつつあった築地小劇場の最も大きな損失であるが、しかし先生はわれわれに内外の名作四十五篇(共同演出を含めて)の権威ある演出を遺産として残された。築地小劇場は、おそらく今後も、その重要ないくつかの舞台を、小山内先生演出の名のもとに再演するであろう。あたかもこれは、ラインハルト
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