、銅のうがい茶碗と、シャボンを塗りつけた束子を持って、
「さあ、明りをたのむよ」とセルゲイに言いつけ、戸の方へ歩いていった。――「明りをお下げな、もっと低く」――そう言いながら彼女は、セルゲイがジノーヴィー・ボリースィチの死体を引きずったと覚しい床板のうえを、穴倉の入口までまんべんなく検査していった。
わずか二タ所だけ、ニス塗りの床のうえに、さくらんぼほどの大きさの血の痕が、ちょっぴり二つ着いていた。カテリーナ・リヴォーヴナが束子でこすると、すぐ消えてしまった。
「よく覚えときなさいよ、これがつまり、自分の女房のところへ泥坊みたいに忍び寄ったり、立ち聞きしたりするもんじゃないという戒しめなのさ」――とカテリーナ・リヴォーヴナは、まっすぐ腰をのばして、穴倉の方をふり返りながら言い放った。
「これで目出たし目出たしか」――セルゲイはそう言ったが、われとわが声の響きにぎょっとした。
二人が寝室にもどって来たとき、暁を告げるほっそりした紅いの筋が一本、東の空をつらぬきはじめて、花におおわれた林檎の木々をうっすらと金色に染めながら、庭の柵のみどり色をした格子ごしに、カテリーナ・リヴォーヴナの部屋へ射しこむのだった。
中庭をよこぎって、羊皮の半外套を肩へ引っかけ、あくびまじりに十字を切りながら、納屋から台所へ、年寄りの番頭がよちよち歩いていった。
カテリーナ・リヴォーヴナは、紐であけたてする鎧戸を用心ぶかくそっと引くと、ふり返ってじいっとセルゲイを見つめたが、その眼はまるで彼の魂を見透そうとしているようだった。
「さあ、これでお前さんは、れっきとした商家の旦那だよ」と彼女は、セルゲイの肩にその白い両手をかけて言った。
セルゲイは、うんともすんとも返事をしなかった。
そのセルゲイの唇は、わなわなと顫えていた。カテリーナ・リヴォーヴナはどうかというと、唇だけが冷え冷えしていた。
それから二日すると、セルゲイの両の手のひらには、鉄梃《かなてこ》や重たいシャベルを使ったらしく、大きなマメが幾つもあらわれた。その甲斐あって、穴倉のなかのジノーヴィー・ボリースィチは、すこぶる手際よく始末されて、こうなったらもう当の後家さんかその情夫の口を借りなければ、死人がみんな復活するというあの最後の審判のその日まで、誰にも嗅ぎつけられる気づかいはないまでになっていた。
※[#ローマ数字9、1−13−29]
セルゲイは喉に真紅なハンカチを巻きつけて、どうしたものだか喉が腫れふさがって困ったと言いふらしていた。ところが、ジノーヴィー・ボリースィチがセルゲイの喉もとにのこした歯形の、まだ直りきらないうちに、カテリーナ・リヴォーヴナの良人の行方不明が、人の口の端にのぼりはじめた。当のセルゲイが誰よりも一ばん多く、旦那のうわさをしだしたのである。宵の一刻を、若い衆にまじって木戸のそばのベンチに腰かけなどしている時、『それにしても、なあみんな、妙な話じゃねえかい、うちの旦那が未だに帰ってござっしゃらねえなんてさ』――といった調子で、口火を切るのである。
若い衆もやはり、不思議だなあと首をかしげる。
そうこうするうちに製粉所から報らせが来て、旦那は何頭だてかの馬車をやとって、もうとうの昔についたことが分る。その車の馭者にきいてみると、ジノーヴィー・ボリースィチははじめから加減がよくない様子だったが、そのうち変てこな場所で車を乗りすてた。というのはつまり、町までまだ一里ちかくもあろうという時分、修道院のそばでいきなり車をおりると、皮袋をさげて、そのまま行ってしまった――というのである。そんな話を耳にするにつけ、一同はますます怪訝《けげん》に思うのだった。
ジノーヴィー・ボリースィチが行きがた知れずになんなすった――結局はまあそこに落ちついてしまう。
そこで捜索がはじまったが、何ひとつ見つからなかった。商人は水へでももぐったみたいに掻き消えてしまったのである。逮捕された馭者の陳述で分ったことは、例の修道院のそばを流れている川っぷちで商人が車をおりて、そのまま行ってしまった――ということだけだった。事件は結局うやむやになって、そのまにカテリーナ・リヴォーヴナは、後家の身の誰に遠慮えしゃくもない気楽さで、セルゲイと思うぞんぶん乳くり合ったのである。ジノーヴィー・ボリースィチの姿を、どこそこで見かけた、いやどこそこで見かけたなどと、当てずっぽうを言いだす者も出てきたが、それでもやっぱり戻ってはこず、第一どうしたって戻ってこられるはずのないことを、誰よりもよく知りぬいているのは、当のカテリーナ・リヴォーヴナに違いなかった。
こうして一ト月たち、二タ月たち、三月目がすぎると、カテリーナ・リヴォーヴナは生理に異状をおぼえた。
「どうやら私たちの元手が
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