流行唄
兼常清佐

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)陽炎《かげろう》
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「流行唄というのは一体どういうものでしょう。」――ギンザ或春の夜、剽軽な雑誌記者が私にそんなことを聞いた。
 難問である。一口にそれに答える事はむずかしい。それに答えるにはギンザを四丁目からシンバシまでくらい歩かなければならない。ただ流行唄はどんなものでないかという事なら、私には五歩行く間に明瞭に答えられる。――流行唄はラジオの国民歌謡のようなものではない。
 流行唄には気分と感情がある。やさしさがある。なつかしさがある。暖さがある。捉われないものがある。強いられないものがある。二十四時間の周期で必ず私共の耳にはいって来る規律的な、計画的な音楽などは、どうも流行唄という事からは縁が遠い。また私も国民歌謡が非常に流行しているという話を聞いた事がない。
 シュトルムは『湖畔』の中にこう書いている。――「流行唄は作られるものではない。空から降って来て、陽炎《かげろう》のように地上を飛びまわる。彼処でも此処でも至る処で人々に唄われる。我々の事業も煩悶も流行唄の中に唄われている。結局我々が総がかりで流行唄を作り上げるようなものである。」
 流行唄というのは正にこのようなものである。国民歌謡のようなものではない。
 シュトルムが『湖畔』を書いてから百年の年月がたっている。今では流行唄もよほどその形を変えて来た。それはニッポンでも同じ事である。まず変ったところは作曲者や詩人がその存在を主張して来たことである。昔の流行唄も、もちろん誰か作った人があるに相違ない。『追分ぶし』も『キソぶし』も『リキューぶし』も作る人がなくては出来るわけはない。しかしその当時の社会では、それを作るという事が、その作った人の存在を主張するほどに値しなかったであろう。作った人も強いてその存在を主張しなかったであろう。それで今から見れば、そのような唄はいつともなく、誰の手からともなく、出来たもののように見える。ある地方の人々の間から全く自然に出来上ったもののように見える。ちょうど野に自然の花が咲き、森に自然の鳥が鳴くようなものに見える。

 今では流行唄を作るという事は、相当な仕事になる。経済的な価値を持っている。またその上に作曲者はそれで社会の名声を博することも出来る。流行唄を作った人は、作ったという事を自分の名で主張しなければ損である。それで今の私共には流行唄と同時に、それを作った人のことも関心の的になる。実際大正から昭和にかけて私共は沢山の美しい、おもしろい流行唄を得た。そしてそれと同時に、それを作った人、例えばナカヤマ・シンペエという名は私共には古典的な名になった。
 このような事では、近頃の流行唄はよほど芸術的な音楽に似て来た。私共はナカヤマ・シンペエの流行唄というおなじような意味で、シューベルトの「リード」とかショパンの「エテュド」とかいうように言う。それはその人でなくては出来ないものの事である。つまりその作品とその個性が離れられないように結びつけられている事である。

 そこで人々はいつもこのような事を考える。――この傾向がだんだん発達するならば、流行唄も芸術的にだんだん進歩して、結局将来のナカヤマ・シンペエはシューベルトになり、『枯れすすき』や『東京行進曲』は『冬の旅』になるであろうか。
 もしそうなれば、今の流行唄を目のかたきにしている老教育家先生だちにとっては誠に万歳である。しかしこの事には多少の矛盾がある。それはちょうど人間は猿から進化したという学説があるから、動物園の猿は、もう少し待ったらみな人間になって、『論語』や『孟子』を愛読するだろう、という事に似ている。しかし動物園の猿がまだ人間になったためしがない。人間は人間で、猿はいつまでも猿である。流行唄はいつまでも流行唄であり、芸術的なリードはリードである。それぞれ違った意味の存在である。
 私は今せっかく出来上った国民歌謡にけちをつける気は毛頭ない。けちを付けて見ても私の得にならない。そしてあれが大いに国民の音楽教育の助けになるという事は私は信じて疑わない。そして将来あるいはその中から美しいリードが出ないとも限らない。しかしこの流行唄でない国民歌謡で流行唄をやっつけようという事には多少計画に矛盾がある。それは話がまた別である。私は国民歌謡にけちを付ける気が毛頭ないように、レコード屋さんの提灯を持つ気も毛頭、毛頭、毛頭ないが、もし私がレコード屋さんの取締役であったら、国民歌謡のようなものがいくら出来ようが、全く平気である。それはそば屋の隣に教会が出来たようなものである。物が違っているから、少しも商売の邪魔にはならない。
 流行唄というものは人間の感情の一大要求である。冷い修
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