な四家《よつや》夫人がラジオで『越後獅子』とかを唄って大いに喝采を博した事があるそうである。それなら今度は勝太郎が『菩提樹』でも唄って、あっと言わせる番である。――もちろん、これは冗談である。しかし、もし私が勝太郎だったら、そんな事は四家夫人のやらない前に必ずちゃんとやってのける。
 私は日本風の声の出し方を少しもおかしいとは思わない。弱くて、低くて、そして表情の力は欠けているであろうが、私にはまた一方で、自然な、無理のない、平穏安楽な気持を与えてくれる。日本人がこの日本の声で或る種のリードを唄って何故いけないだろうか。私はニホン音楽をあまり好まないが、もしその中から何かを撰べと言われるならば、私はこの無理のない声の出し方などを撰ぶつもりである。
 次にこれは付けたりの事であるが、――そして本当はこれを特に技巧の中には数えられないものであろうが、――私はリュトムスをちょっと注意する。細かい話はここでは出来ないが、とにかく私にはこんなレコードの持つリュトムスの感じが甚だ気に入る。きまり切った三味線端唄なら、そう大した事はないが、自由な民謡では音の長短の割合と曲の進行する速度とが甚だ工合よくいっている。このようなレコードを聞いてすぐその曲を真似て見ると、民謡は簡単だから大体のふしの上下は真似られる。しかし音の長短の呼吸は、拍子を数えて精密に譜に書いて見ない以上はなかなか真似られまいと思われる。とにかく相当おもしろい。
 常識で考えて、勝太郎姐さんともあるものが、まさか『コールユーブンゲン』を正式に稽古したはずはないから、この快いリュトムスの感じは、やはり自然に彼女の心の中にそなわったものであろう。これは日本の民謡で決して馬鹿にならないものの一つである。
 繰返して言うが、私はニホン音楽をあまり好まない。その好まないうちでも、もし何かを撰んで見ろと言われたら、私は躊躇なくニホンの民謡を撰ぶ。だから勝太郎が『三階ぶし』を唄い、『伊那節』を唄うなどという事は、甚だ私を喜ばせる。
 ニホンの民謡のふしには相当おもしろいのがある。一体でみな簡単ではあるが、しかしなかなか綺麗なのがある。そしてそれにはちゃんとした形がある。大抵文句が二行で、その二行がA―Bというような対照のふしで唄われて、それがリュトムスや何やでよく統一されているのが多い。その上に曲に個性がある。どれを聞いても同じ
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