、純粋にピアノの音楽の形式の上で再現されなければならぬ。此処で女史は恐らく一度途方に暮れたかもしれぬ。
女史のピアノをただピアノとして見れば、例えばペダルに、メロディの弾き方に、fやpに対する注意に、特に譜を正しく読む事に、まだ多少の工夫の余地はあったであろう。あるいは和声やコントラプンクトや、曲全体の構造などについてはまだ多少学ぶべき余地もあったであろう。ましてピアノ音楽史上の思潮を考え、自分の立脚地を明かにする事については、更に幾多の研究を要したであろう。
例えばベートーヴェンのゾナーテが果して女史の弾いたように弾かれるべきものかという事については私にはよほど疑問がある。私は一九二二年四月二十八日にエミール・ザウエルの『月光曲』を聞いた。また近頃或る雑誌でそのザウエルが久野女史の『月光曲』を聞いて大に賞賛したという事を読んだ。もちろんこの老巨匠は女史の天才と素質に対してあらゆる褒辞を惜まなかったであろう。しかし女史の『月光曲』そのままを優れたピアノの演奏として賞賛したとは、私にはどうしても受け取れない。ザウエルは恐らく女史の望み多い将来に対してブラヴォーを叫んだのであろう。私共が女史の天才と熱情とに期待したものも全くそれに外ならない。
女史はニホンでの一切の悪夢からさめて、まず此処に一精進を試みるはずであった。もし女史をしてそれを拒ましめるものがあったならば、それはニホンで不健全にかち得た盛名である。その盛名から徒らにえがき出された「世界のピアニスト」の幻影である。そしてニホンの過渡期の楽界はよし知らず知らずにしても、なおそれに対して誠に申訳のない事をしたとわびなければならぬ。罪は私共ニホン人全体にある。
女史の死因は女史自ら遺書にでも言わない限り、もとより私共の想像を許さない。またニホンでの盛名を事実上多少裏切られた事位で、あれほどに努力を標榜していた女史がその精進の前途を葬ってしまおうとも思われぬ。しかし女史の悲劇的な死が有っても無くても、要するに女史の一生が過渡期の無知なニホンの一犠牲となっていた事に変りはない。今私共がこの哀れなる天才の遺骨を迎えて切に期する事は、将来決して第二の久野ひさ子女史を出さないようにする事である。それが私共の女史に対する心からなる手向けである。
底本:「音楽と生活 兼常清佐随筆集」岩波文庫、岩波書店
1992(平成4)年9月16日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:小林繁雄
2007年12月20日作成
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