奏家にならなかった事を非常に幸福に思っている。

    3 私の考

 読者諸君、諸君は私のこの話を聞いても、にわかに同意しないであろう。諸君はきっとこう言うであろう。――お前の言う事も本当かも知れないが、それでも何となくまだ何か後に残っているような気がする。まさかパデレウスキーが鍵盤を叩いた音と猫が鍵盤を蹈んだ音が同じだとは、どうも何となくそう思われない。お前の話こそどこか間違っていないか? お前の話は実際本当の事か?
 私自身はこの話は実際本当だと思っている。音楽というものは、結局こんなものだと思っている。私自身の常識はこの私の話をよく承認してくれる。この反対の事は私には考えられない。
 諸君は何故に演奏家などいう怪しげな中間の存在物にそんなに心が惹かれるのか。音楽が成立するためには、演奏家は明かに第二義的な存在ではないか。
 ショパンは美しい曲を作った。そしてプレエルのピアノでそれを弾いた。恋人のジョルジュ・サンドはその美しさに胸を躍らせた。同じように今ここにヤマハやカワイのいい音のするピアノがある。ショパンの全集がある。そしてその美しさに胸を躍らす私共聴衆がある。それで音楽は完成していないか。
 ショパンのタッチが柔かで綺麗だったと伝説には謳われている。しかしイグチのタッチは柔かで綺麗でないか。イグチで悪いなら――パデレウスキーでもいい。コルトーでもいい。ショパン以後百年も技巧ばかり磨いて来た今の時代のピアノ演奏家が、まさかショパンほどもピアノが弾けないとは思われない。そして曲が同じなら、誰が弾いたところで、結局同じ事である。もし個人特有なタッチの技巧というものがないならば、あとは僅に曲の速度や、強弱の変化や、音の均合などが個人的な特徴になって来るだけである。
 そんな僅な事はどうでもいい事ではないか。同じ曲を少し速く弾こうが、遅く弾こうが、そんな事が私共に一体何の芸術的な意味を持つか。ショパンやリストの世にも美しい作曲は、僅ばかり速く弾かれようが、強く弾かれようが、そんな取るにも足らぬ小さい事ぐらいで、毫もその価値は変らない。特にその速さも、強さも、均合も、みな先生の真似事だとなったら、私にはますますそんな馬鹿々々しい事に係り合おうという気は起らなくなる。私はいい音のするピアノがあればいい。ショパンやリストの全集があればいい。弾くのはイグチ一人で十分であ
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