もし。あなたの鰐は生きてはゐないのでせう。」細君がドイツ人に向つて、愛敬のある微笑を顔に見せて、かう云つたのは、ドイツ人が余り高慢な態度をしてゐるので、その不愛想な性質に、打ち勝つて見ようと思つたのである。女と云ふものは兎角こんな遣方《やりかた》をするものである。
「奥さん。そんな事はありません。」ドイツ人は不束《ふつゝか》なロシア語で答へた。そして直ぐに金網を持ち上げて、棒で鰐の頭を衝いた。
 そこで横着な動物奴は、やつと自分が生きてゐるのを知らせようと決心したと見えて、極少しばかり尻尾を動かした。それから前足を動かした。それから大食ひの嘴を少し持ち上げて、一種の声を出した。ゆつくり鼾《いびき》をかくやうな声である。
「こら。おこるのぢやないぞ。カルルや。」ドイツ人はそれ見たかと云ふ風で、鰐に愛想を言つたのである。
 細君は前より一層人に媚びるやうな調子で云つた。「まあ、厭な獣だこと。動き出したので、わたしほんとにびつくりしましたわ。きつとわたし夢に見てよ。」
「大丈夫です。食ひ付きはしません。」ドイツ人は細君に世辞を言ふ気味で、かう云つた。そして我々一行は少しも笑はないに、自分で自
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