分の詞《ことば》を面白がつて笑つた。
細君は特別に己の方に向いて云つた。「セミヨン・セミヨンニツチユさん。あつちへ行つて、猿を見ませうね。わたし猿が大好き。中には本当に可哀《かはい》いのがありますわ。鰐は厭ですこと。」
「そんなにこはがる事はないよ。フアラオ王の国に生れた、この眠たげな先生はどうもしやしないらしいから。」イワンは細君の前で、自分の大胆な所を見せ付けるのが愉快だと見えて、猿の方へ歩いて行く細君と己との背後《うしろ》から、かう云つたのである。そして自分はブリツキの盤の側に残つてゐた。そればかりではない。イワンは手袋で鰐の鼻をくすぐつた。後に話したのを聞けば、これはもう一遍鰐に鼾をかかせようとしたのである。動物小屋の持主は、客の中の只一人の夫人として、エレナを尊敬する心持で、鰐より遙かに面白い猿の籠の方へ附いて来た。
先づこゝまでは万事無事に済んだ。誰一人災難が起つて来ようとは思はずにゐた。細君は大小種々の猿を見て夢中になつて喜んでゐる。そしてあの猿は誰に似てゐる。この猿は彼に似てゐると、我々の交際してゐる人達の名を言つて、折々愉快で溜まらないと見えて、忍笑《しのびわらひ》をしてゐる。実際猿とその人とがひどく似てゐる事もあるので、己も可笑《をか》しくなつた。ところが、小屋の持主は、細君がまるで相手にしないので、自分も一しよになつて笑つて好いか、それとも真面目でゐるが好いか分からなかつた。そしてとう/\不機嫌になつた。
丁度ドイツ人が不機嫌になつたのに気の付いたと同時に、突然恐ろしい、殆ど不自然だとも云ふべき叫声が小屋の空気を震動させた。何事だか分からずに、己は固くなつて立ち留つた。そのうち細君も一しよに叫び出したので、己は振り返つて見た。なんと云ふ事だらう。気の毒なイワンが※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の恐ろしい口で体の真ん中を横銜《よこくは》へにせられてゐるのである。水平に空中に横はつて、イワンは一しよう懸命手足を動かしてゐたが、それは只一刹那の事で、忽ち姿は見えなくなつた。
かう云つてしまへばそれまでだが、この記念すべき出来事を、己は詳細に話さうと思ふ。己はその時死物のやうになつて、只目と耳とを働かせてゐたので、一部始終を残らず見てゐた。想ふに、己はあの時程の興味を以て或る出来事を見てゐた事は、生涯又となかつただらう。その間多少の思慮は働いてゐたので、己はこんな事を思つた。「あんな目に逢ふのがイワンでなくて、己だつたらどうだらう。随分困つたわけだ。」それはさうと、己の見たのはかうである。
※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]は先づ横に銜へてゐたイワンを口の中で、一|捏《こね》捏ねて、足の方を吭《のど》へ向けて、物を呑むやうな運動を一度した。イワンの足が腓腸《ふくらはぎ》まで見えなくなつた。それから丁度|翻芻族《はんすうぞく》の獣のやうに、曖気《おくび》をした。そこでイワンの体が又少し吐き出された。イワンは※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の口から飛び出さうと思つて、一しよう懸命盤の縁に両手で搦み付いた。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]は二度目に物を呑む運動をした。イワンは腰まで隠れた。又|曖気《おくび》をする。又呑む。それを度々繰り返す。見る見るイワンの体は※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹中に這入つて行くのである。とう/\最後の一呑で友人の学者先生が呑み込まれてしまつた。その時※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の体が一個所膨んだ。そしてイワンの体が次第に腹の中へ這入り込んで行くのが見えた。己は叫ばうと思つた。その刹那に運命が今一度不遠慮に我々を愚弄した。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]は吭《のど》をふくらませて、又曖気をした。想ふに、餌が少々大き過ぎたと見える。曖気と一しよに恐ろしい口を開くと突然曖気が人の形になつたとでも云ふ風に、イワンの首がちよいと出て又隠れた。極端に恐怖してゐる、イワンの顔が一秒時間我々に見えた。その刹那に※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の下顎の外へ食み出したイワンの鼻から、目金がブリツキの盤の底の、一寸ばかりの深さの水の中へ、ぽちやりと落ちた。なんだか絶望したイワンがわざ/\この世の一切の物を今一度見て暇乞をしたやうに思はれた。併しぐづ/\してゐる隙《ひま》はない。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]はもう元気を快復したと見えて、又呑む運動をした。そしてイワンの頭は永久に見えなくなつた。
生きた人間の
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