を慕つて逃げようとして、額に烙印をせられる。姉が弟を逃がして、跡に残つて責め殺される。弟は中山国分寺の僧に救はれて、京都に往く。清水寺で、つし王は梅津院と云ふ貴人に逢ふ。梅津院は七十を越して子がないので、子を授けて貰ひたさに参籠したのである。
 つし王は梅津院の養子にせられて、陸奥守兼丹後守になる。つし王は佐渡へ渡つて母を連れ戻し、丹後に入つて山椒大夫を竹の鋸で挽き殺させる。山椒大夫には太郎、二郎、三郎の三人の子があつた。兄二人はつし王をいたはつたので助命せられ、末の三郎は父と共に虐けた[#「虐けた」はママ]ので殺される。これがわたくしの知つてゐる伝説の筋である。
 わたくしはおほよそ此筋を辿つて、勝手に想像して書いた。地の文はこれまで書き慣れた口語体、対話は現代の東京語で、只山岡大夫や山椒大夫の口吻に、少し古びを附けただけである。しかし歴史上の人物を扱ふ癖の附いたわたくしは、まるで時代と云ふものを顧みずに書くことが出来ない。そこで調度やなんぞは手近にある和名抄にある名を使つた。官名なんぞも古いのを使つた。現代の口語体文に所々古代の名詞が插まることになるのである。同じく時代を蔑にしたくない所から、わたくしは物語の年立をした。即ち、永保元年に謫せられた正氏が、三歳のあんじゆ、当歳のつし王を残して置いたとして、全篇の出来事を、あんじゆが十四、十五になり、つし王が十二、十三になる寛治六七年の間に経過させた。
 さてつし王を拾ひ上げる梅津院と云ふ人の身分が、わたくしには想像が附かない、藤原基実が梅津大臣と云はれた外には、似寄の称のある人を知らない。基実は永万二年に二十四で薨じたのだから、時代も後になつてをり、年齢もふさはしくない。そこでわたくしは寛治六七年の頃、二度目に関白になつてゐた藤原師実を出した。
 其外、つし王の父正氏と云ふ人の家世は、伝説に平将門の裔だと云つてあるのを見た。わたくしはそれを面白くなく思つたので、只高見王から筋を引いた桓武平氏の族とした。又山椒大夫には五人の男子があつたと云つてあるのを見た。就中太郎、二郎はあん寿、つし王をいたはり、三郎は二人を虐ける[#「虐ける」はママ]のである。わたくしはいたはる側の人物を二人にする必要がないので、太郎を失踪させた。
 こんなにして書き上げた所で見ると、稍妥当でなく感ぜられる事が出来た。それは山椒大夫一家に虐けられる[#「虐けられる」はママ]には、十三と云ふつし王が年齢もふさはしからうが、国守になるにはいかがはしいと云ふ事である。しかしつし王に京都で身を立てさせて、何年も父母を顧みずにゐさせるわけにはいかない。それをさせる動機を求めるのは、余り困難である。そこでわたくしは十三歳の国守を作ることをも、藤原氏の無際限な権力に委ねてしまつた。十三歳の元服は勿論早過ぎはしない。
 わたくしが山椒大夫を書いた楽屋は、無遠慮にぶちまけて見れば、ざつとこんな物である。伝説が人買の事に関してゐるので、書いてゐるうちに奴隷解放問題なんぞに触れたのは、已[#「已」は底本では「巳」]むことを得ない。
 兎に角わたくしは歴史離れがしたさに山椒大夫を書いたのだが、さて書き上げた所を見れば、なんだか歴史離れがし足りない[#「し足りない」は底本では「足りない」]やうである。これはわたくしの正直な告白である。
[#地から1字上げ](大正四年一月)



底本:「ザ・鴎外 ―森鴎外全小説全一冊―」第三書館
   1985(昭和60)年5月1日初版発行
   1992(昭和67)年8月20日第2刷発行
初出:「心の花」
   1915(大正4)年1月
※疑問点の確認に際しては、「鴎外全集 第二十六卷」岩波書店、1973(昭和48)年12月22日発行を参照しました。
入力:村上聡
校正:野口英司
1998年3月30日公開
2005年5月14日修正
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