学にいた時最も恐怖すべき高等数学の講義を聴いた時間よりも長かった。それを耐忍したのだから、私は自ら満足しても好いかと思う。
 ようよう物語と同じように節を附けた告別の詞《ことば》が、秋水の口から出た。前列の中央に胡坐《あぐら》をかいていた畑を始として、一同拍手した。私はこの時|鎖《くさり》を断たれた囚人の歓喜を以て、共に拍手した。
 畑等が先に立って、前に控所であった室の隣の広間をさして、廊下を返って往く。そこが宴会の席になっているのである。
 私は遅れて附いて行く時、廊下で又|鼠頭魚《きす》に出逢った。
「大変ね」と女は云った。
「何が」と真面目《まじめ》な顔をして私は問いかえした。
「でも」と云ったきり、噴き出しそうになったのを我慢するらしい顔をして、女は摩《す》れ違った。
 私は筵会《えんかい》の末座に就いた。若い芸者が徳利の尻を摘《つ》まんで、私の膳の向うに来た。そして猪口《ちょく》を出した私の顔を見て云った。
「面白かったでしょう」
 大人か小児《こども》に物を言うような口吻《こうふん》である。美しい目は軽侮、憐憫《れんみん》、嘲罵《ちょうば》、翻弄《ほんろう》と云うような、あらゆる感情を湛《たた》えて、異様に赫《かがや》いている。
 私は覚えず猪口を持った手を引っ込めた。私の自尊心が余り甚《はなは》だしく傷《きずつ》けられたので、私の手は殆《ほとん》ど反射的にこの女の持った徳利を避けたのである。
「あら。どうなすったの」
 女の目に映じているのは、前に異なった感情である。それを分析したら、怪訝《かいが》が五分に厭嫌《えんけん》が五分であろう。秋水のかたり物に拍手した私は女の理解する人間であったのに、猪口の手を引いた私は、忽《たちま》ち女の理解すること能《あた》わざる人間となったのである。
 私ははっと思って、一旦《いったん》引いた手を又出した。そして注《つ》がれた杯の酒を見つつ、私は自ら省みた。
「まあ、己《おれ》はなんと云う未錬《みれん》な、いく地のない人間だろう。今己と相対しているのは何者だ。あの白粉《おしろい》の仮面の背後に潜む小さい霊が、己を浪花節の愛好者だと思ったのがどうしたと云うのだ。そう思うなら、そう思わせて置くが好いではないか。試みに反対の場合を思って見ろ。この霊が己を三味線の調子のわかる人間だと思ってくれたら、それが己の喜ぶべき事だろう
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