して遣らなくては。」皆さんと敬つて置いて、出して遣ると貶《けな》した所に、詞《ことば》に力を入れて呼んだのは、流石《さすが》気が利いてゐるが、その皆さんは一向引かうとしない。ロオデンシヤイドの上流社会は城壁のやうに屹立してゐる。やつとの事で今まで持ちこたへてゐる場所を、誰だつて人に譲らうとはしない。
そのうち場内のものが蠢《うごめ》き出した。大人は熱して浮かれて、子供は笑つてゐる。数千人が、早く帰つて晩食を食はうと思つて、場外へ押して出る。それが忽ち堅固な抗抵に遭遇した。かうなると力一ぱい押して出ようとするのは必然である。
「皆さん。お引なさい。道をおあけなさい。」警部がいくら呼んでも駄目である。もう警部自身が群集の中で揉まれてゐる。巡査が数人それを救ひ出さうとして寄つて来たが、それもすぐに群集の中で揉まれることになつた。
もう外へ出ることも出来なければ、内へ這入ることも出来ない。双方共|背後《うしろ》から押されてゐる。中にちよい/\理性に合《かな》つた詞を出すものがあつても、周囲《まはり》の罵り噪《さわ》ぐ声に消されてしまふ。此場の危険は次第にはつきり意識に上つて来た。
「おい。そつちの奴等が避けて入れれば好いのだ。」
「なに。奴等だと。黙りやあがれ。お上品振りやあがつて。うぬ等は這入らなくても好いのだ。」
こんな風に第一線で詞戦《ことばだたかひ》をする。双方が時時突貫を試みようとする。女はきい/\云ふ。男は罵る。子供は泣く。そのうち弱いものが二三人押し倒される。気を喪《うしな》ふ。それを踏み付ける。罵詈《あざ》ける。歎願する。あらあらしく、むちやくちやに押し合ふ。いつまで遣つても同じ事である。息の抜けやうがない。
「これはこれは。お客様方。」かう云つて出て来たのは、赤い燕尾服を被て、手に鞭を持つた頭のカスペリイニイである。仲裁は功を奏せない。血が流れる。失敗だ。初日の大当を、お客様が破壊《こは》してしまふのである。なんたる惨状だらう。「皆さん皆さん。わたしの言ふことを聞いて下さい。わたしはどうにでも致します。お出《で》になる方がお出《で》になつて、お這入になる方がお這入になれば好いのです。御熱心な所は幾重《いくへ》にもお礼を申します。つひ落ち着いて考へて見て下されば好いのです。皆さん教育のありなさる方々でせう。第一あなたが。」一番前にゐる一人と、とうとう取つ組み合ふことになつた。
高等騎術を見せることになつてゐる女房ユリアが出て来た。「マツテオさん。鞭でぶつてお遣りよ。相手になられるならなつて見るが好い。乳つ臭い人達だわ。」
「押すのをよさないと、白熊を放すぞ。」
口笛を吹く。鬨を上げる。やじ馬が勢を得て来た。どうもしやうがない。もう曲馬組の人達が群集の中で揉まれてゐる。
「親方。防火栓をお抜かせなさい。」突然かう叫んだのは、音楽のわかる道化方トロツテルである。場内では人を涙の出るほど笑はせるのだが、今出て来たのを見れば、あはれな、かたはの小男である。拳骨を振つて囲を衝いて、頭《かしら》の傍へ来た。「ねえ、親方。防火栓をお抜かせなさい。あれが好い。冷やして好い。きつと利きます。」
途方にくれてゐたカスペリイニイが此天才の助言を成程と思つた。警察も理性も功を奏せないとなれば、もう暴力より外あるまい。世間を馬鹿にし切つた道化方でなくては、こんな智慧は出ない。カスペリイニイは同意の手真似をして頷いた。
トロツテルは又拳骨を振つて囲を衝いて、火消番の立つてゐる所へ往つた。救のある所へ往つた。
そこでどうなつたか。気の毒千万なのはロオデンシヤイド市民と元日のおなぐさみとである。天罰の下るやうに、曲馬場の中から喞筒《ポンプ》の水が迸り出た。滔々乎《たう/\こ》として漲つて息《や》まない。あらゆる物をよごし、やはらげ、どこまでも届く。
防火栓は奇功を奏した。晩のお客は問題の最簡単なる解決を得た。お客は踵《くびす》を旋《めぐら》して逃げた。これで命に別状はない。昼のお客はその跡からぞろぞろ出て、曲馬場をあけた。
但しいやと云ふ程洗礼を受けぬものは一人も無い。皆寒がつて歯をがちがち云はせてゐる。併し命には別状は無い。
頭カスペリイニイは天才の道化方に抱き付いて、給料を増す約束をした。これは次いで起る裁判事件を前知したら、控へたのかも知れない。新年早々数十件の損害要償の訴訟が起つて、水でいたんだ晴着の代を出させられたからである。其判決の理由にはかう云つてあつた。災難の原因は看客の理性の不足でもない。警察の不備でもない。曲馬場の入口を一つしか設けなかつたのが原因《もと》である。
頭はいやな顔もせずに償金を払つた。それはロオデンシヤイドの曲馬場は今後もきつと大入だと云ふことを知つてゐたからである。それが何よりの事だからであ
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