いので、また例の岩の処へ出掛けた。
この日丁度|午過《ひるすぎ》から極《ごく》軽い風が吹いて、高い処にも低い処にも団《まろ》がっていた雲が少しずつ動き出した。そして銀色に光る山の巓が一つ見え二つ見えて来た。フランツが二度目に出掛けた頃には、巓という巓が、藍色《あいいろ》に晴れ渡った空にはっきりと画かれていた。そして断崖《だんがい》になって、山の骨のむき出されているあたりは、紫を帯びた紅《くれない》に※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にお》うのである。
フランツが例の岩の処に近づくと、忽ち木精の声が賑《にぎ》やかに聞えた。小さい時から聞き馴れた、大きい、鈍い、コントルバスのような木精の声である。
フランツは「おや、木精だ」と、覚えず耳を欹《そばだ》てた。
そして何を考える隙《ひま》もなく駈け出した。例の岩の処に子供の集まっているのが見える。子供は七人である。皆ブリュネットな髪をしている。血色の好い丈夫そうな子供である。
フランツはついに見たことのない子供の群れを見て、気兼をして立ち留まった。
子供達は皆じいっとして木精を聞いていたのであるが、木精の声が止んでしまうと、また声を揃えてハルロオと呼んだ。
勇ましい、底力のある声である。
暫くすると木精が答えた。大きい大きい声である。山々に響き谷々に響く。
空に聳《そび》えている山々の巓は、この時あざやかな紅に染まる。そしてあちこちにある樅の木立は次第に濃くなる鼠色《ねずみいろ》に漬《ひた》されて行く。
七人の知らぬ子供達は皆じいっとして、木精の尻声《しりごえ》が微かになって消えてしまうまで聞いている。どの子の顔にも喜びの色が輝いている。その色は生の色である。
群れを離れてやはりじいっとして聞いているフランツが顔にも喜びが閃《ひらめ》いた。それは木精の死なないことを知ったからである。
フランツは何と思ってか、そのまま踵《きびす》を旋《めぐ》らして、自分の住んでいる村の方へ帰った。
歩きながらフランツはこんな事を考えた。あの子供達はどこから来たのだろう。麓の方に新しい村が出来て、遠い国から海を渡って来た人達がそこに住んでいるということだ。あれはおおかたその村の子供達だろう。あれが呼ぶハルロオには木精が答える。自分のハルロオに答えないので、木精が死んだかと思ったのは、間違であった。木精は死なない。しかしもう自分は呼ぶことは廃《よ》そう。こん度呼んで見たら、答えるかも知れないが、もう廃そう。
闇《やみ》が次第に低い処から高い処へ昇って行って、山々の巓は最後の光を見せて、とうとう闇に包まれてしまった。村の家にちらほら燈火が附き始めた。
[#地から1字上げ](明治四十三年一月)
底本:「普請中 青年 森鴎外全集2」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年7月24日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版森鴎外全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月〜9月刊
入力:鈴木修一
校正:mayu
2001年7月31日公開
2006年4月28日修正
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