妄想
森鴎外
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)目前《もくぜん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)只|二間《ふたま》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)夷※[#「さんずい+((旡+旡)/鬲)」、第3水準1−87−31]川《いしみがは》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)炯々《けい/\》たる目が
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔du^n〕《ドユウン》 といふ語
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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目前《もくぜん》には広々と海が横はつてゐる。
その海から打ち上げられた砂が、小山のやうに盛り上がつて、自然の堤防を形づくつてゐる。アイルランドとスコットランドとから起つて、ヨオロッパ一般に行はれるやうになつた 〔du^n〕《ドユウン》 といふ語《ことば》は、かういふ処を斥《さ》して言ふのである。
その砂山の上に、ひよろひよろした赤松が簇《むら》がつて生えてゐる。余り年を経た松ではない。
海を眺めてゐる白髪の主人は、此松の幾本かを切つて、松林の中へ嵌《は》め込んだやうに立てた小家《こいへ》の一間《ひとま》に据わつてゐる。
主人が元《も》と世に立ち交つてゐる頃に、別荘の真似事のやうな心持で立てた此小家は、只|二間《ふたま》と台所とから成り立つてゐる。今据わつてゐるのは、東の方一面に海を見晴らした、六畳の居間である。
据わつてゐて見れば、砂山の岨《そは》が松の根に縦横に縫はれた、殆ど鉛直な、所々|中窪《なかくぼ》に崩れた断面になつてゐるので、只|果《はて》もない波だけが見えてゐるが、此山と海との間には、一筋の河水と一帯《いつたい》の中洲《なかす》とがある。
河は迂回《うくわい》して海に灌《そそ》いでゐるので、岨《そは》の下では甘い水と鹹《から》い水とが出合つてゐるのである。
砂山の背後《うしろ》の低い処には、漁業と農業とを兼ねた民家が疎《まば》らに立つてゐるが、砂山の上には主人の家が只一軒あるばかりである。
いつやらの暴風に漁船が一艘|跳《は》ね上げられて、松林の松の梢《こずゑ》に引つ懸《かか》つてゐたといふ話のある此砂山には、土地のものは恐れて住まない。
河は上総《かづさ》の夷※[#「さんずい+((旡+旡)/鬲)」、第3水準1−87−31]川《いしみがは》である。海は太平洋である。
秋が近くなつて、薄靄《うすもや》の掛かつてゐる松林の中の、清い砂を踏んで、主人はそこらを一廻《ひとめぐ》りして来て、八十八《やそはち》という老僕の拵《こしら》へた朝餉《あさげ》をしまつて、今自分の居間に据わつた処である。
あたりはひつそりしてゐて、人の物を言ふ声も、犬の鳴く声も聞えない。只|朝凪《あさなぎ》の浦の静かな、鈍い、重くろしい波の音が、天地の脈搏《みやくはく》のやうに聞えてゐるばかりである。
丁度|径《わたり》一尺位に見える橙黄色《たうわうしよく》の日輪《にちりん》が、真向うの水と空と接した処から出た。水平線を基線にして見てゐるので、日はずんずん升《のぼ》つて行くやうに感ぜられる。
それを見て、主人は時間といふことを考へる。生といふことを考へる。死といふ事を考へる。
「死は哲学の為めに真の、気息を嘘《ふ》き込む神である、導きの神(Musagetes)である」と Schopenhauer《シヨオペンハウエル》 は云つた。主人は此|語《ことば》を思ひ出して、それはさう云つても好からうと思ふ。併し死といふものは、生といふものを考へずには考へられない。死を考へるといふのは生が無くなると考へるのである。
これまで種々の人の書いたものを見れば、大抵|老《おい》が迫つて来るのに連れて、死を考へるといふことが段々切実になると云つてゐる。主人は過去の経歴を考へて見るに、どうもさういふ人々とは少し違ふやうに思ふ。
* * *
自分がまだ二十代で、全く処女のやうな官能を以て、外界のあらゆる出来事に反応して、内には嘗《かつ》て挫折《ざせつ》したことのない力を蓄へてゐた時の事であつた。自分は伯林《ベルリン》にゐた。列強の均衡を破つて、独逸《ドイツ》といふ野蛮な響の詞《ことば》にどつしりした重みを持たせたヰルヘルム第一世がまだ位にをられた。今のヰルヘルム第二世のやうに、〔da:monisch〕《デモオニシユ》 な威力を下《しも》に加へて、抑へて行かれるのではなくて、自然の重みの下に社会民政党は喘《あへ》ぎ悶《もだ》えてゐたのである。劇場では Ernst《エルンスト》 von《フオン》 Wildenbruch《ヰルデンブルツホ》 が、あの Hohenzollern《ホオヘンツオルレルン》 家の祖先を主人公にした脚本を興業させて、学生仲間の青年の心を支配してゐた。
昼は講堂や Laboratorium《ラボラトリウム》 で、生き生きした青年の間に立ち交つて働く。何事にも不器用で、癡重《ちちよう》といふやうな処のある欧羅巴《ヨオロツパ》人を凌《しの》いで[#「凌《しの》いで」は底本では「凌《しのい》いで」]、軽捷《けいせふ》に立ち働いて得意がるやうな心も起る。夜は芝居を見る。舞踏場にゆく。それから珈琲店《コオフイイてん》に時刻を移して、帰り道には街燈|丈《だけ》が寂しい光を放つて、馬車を乗り廻す掃除人足が掃除をし始める頃にぶらぶら帰る。素直に帰らないこともある。
さて自分の住む宿に帰り着く。宿と云つても、幾竈《いくかまど》もあるおほ家《いへ》の入口の戸を、邪魔になる大鍵で開けて、三階か四階へ、蝋《らふ》マッチを擦《す》り擦《す》り登つて行つて、やうやう chambre《シヤンブル》 garnie《ガルニイ》 の前に来るのである。
高机一つに椅子二つ三つ。寝台に箪笥《たんす》に化粧棚。その外にはなんにもない。火を点《とも》して着物を脱いで、その火を消すと直ぐ、寝台の上に横になる。
心の寂しさを感ずるのはかういふ時である。それでも神経の平穏な時は故郷の家の様子が俤《おもかげ》に立つて来るに過ぎない。その幻を見ながら寐入る。Nostalgia《ノスタルギア》 は人生の苦痛の余り深いものではない。
それがどうかすると寐附かれない。又起きて火を点して、為事《しごと》をして見る。為事に興が乗つて来れば、余念もなく夜を徹してしまふこともある。明方近く、外に物音がし出してから一寸寐ても、若い時の疲労は直ぐ恢復《くわいふく》することが出来る。
時としてはその為事が手に附かない。神経が異様に興奮して、心が澄み切つてゐるのに、書物を開けて、他人の思想の跡を辿《たど》つて行くのがもどかしくなる。自分の思想が自由行動を取つて来る。自然科学のうちで最も自然科学らしい医学をしてゐて、exact《エクサクト》 な学問といふことを性命《せいめい》にしてゐるのに、なんとなく心の飢を感じて来る。生といふものを考へる。自分のしてゐる事が、その生の内容を充たすに足るかどうだかと思ふ。
生れてから今日まで、自分は何をしてゐるか。始終何物かに策《むち》うたれ駆られてゐるやうに学問といふことに齷齪《あくせく》してゐる。これは自分に或る働きが出来るやうに、自分を為上《しあ》げるのだと思つてゐる。其目的は幾分か達せられるかも知れない。併し自分のしてゐる事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めてゐるに過ぎないやうに感ぜられる。その勤めてゐる役の背後《うしろ》に、別に何物かが存在してゐなくてはならないやうに感ぜられる。策《むち》うたれ駆られてばかりゐる為めに、その何物かが醒覚《せいかく》する暇《ひま》がないやうに感ぜられる。勉強する子供から、勉強する学校生徒、勉強する官吏、勉強する留学生といふのが、皆その役である。赤く黒く塗られてゐる顔をいつか洗つて、一寸舞台から降りて、静かに自分といふものを考へて見たい、背後《うしろ》の何物かの面目を覗《のぞ》いて見たいと思ひ思ひしながら、舞台監督の鞭《むち》を背中に受けて、役から役を勤め続けてゐる。此役が即ち生だとは考へられない。背後《うしろ》にある或る物が真の生ではあるまいかと思はれる。併しその或る物は目を醒《さ》まさう醒《さ》まさうと思ひながら、又してはうとうとして眠つてしまふ。此頃折々切実に感ずる故郷の恋しさなんぞも、浮草が波に揺られて遠い処へ行つて浮いてゐるのに、どうかするとその揺れるのが根に響くやうな感じであるが、これは舞台でしてゐる役の感じではない。併しそんな感じは、一寸頭を挙げるかと思ふと、直ぐに引つ込んでしまふ。
それとは違つて、夜寐られない時、こんな風に舞台で勤めながら生涯を終るのかと思ふことがある。それからその生涯といふものも長いか短いか知れないと思ふ。丁度その頃留学生仲間が一人|窒扶斯《チフス》になつて入院して死んだ。講義のない時間に、〔Charite'〕《シヤリテエ》 へ見舞に行くと、伝染病室の硝子《ガラス》越《ご》しに、寐てゐるところを見せて貰ふのであつた。熱が四十度を超過するので、毎日冷水浴をさせるといふことであつた。そこで自分は医学生だつたので、どうも日本人には冷水浴は危険だと思つて、外のものにも相談して見たが、病院に人れて置きながら、そこの治療|方鍼《はうしん》に容喙《ようかい》するのは不都合であらうし、よしや言つたところで採用せられはすまいといふので、傍観してゐることになつた。そのうち或る日見舞に行くと昨夜《ゆうべ》死んだといふことであつた。その男の死顔を見たとき、自分はひどく感動して、自分もいつどんな病に感じて、こんな風に死ぬるかも知れないと、ふと思つた。それからは折々此儘|伯林《ベルリン》で死んだらどうだらうと思ふことがある。
さういふ時は、先づ故郷で待つてゐる二親《ふたおや》がどんなに歎くだらうと思ふ。それから身近い種々の人の事を思ふ。中にも自分にひどく懐《なつ》いてゐた、頭の毛のちぢれた弟の、故郷を立つとき、まだやつと歩いてゐたのが、毎日毎日兄いさんはいつ帰るかと問ふといふことを、手紙で言つてよこされてゐる。その弟が、若《も》し兄いさんはもう帰らないと云はれたら、どんなにか嘆くだらうと思ふ。
それから留学生になつてゐて、学業が成らずに死んでは済まないと思ふ。併《しか》し抽象的にかう云ふ事を考へてゐるうちは、冷かな義務の感じのみであるが、一人一人具体的に自分の値遇《ちぐう》の跡《あと》を尋ねて見ると、矢張身近い親戚のやうに、自分に Neigung《ナイグング》 からの苦痛、情《じやう》の上の感じをさせるやうにもなる。
かういふやうに広狭《くわうけふ》種々の social《ゾチアル》 な繋累的《けいるゐてき》思想が、次第もなく簇《むら》がり起つて来るが、それがとうとう individuell《インヂヰヅエル》 な自我《じが》の上に帰着してしまふ。死といふものはあらゆる方角から引つ張つてゐる糸の湊合《そうがふ》してゐる、この自我といふものが無くなつてしまふのだと思ふ。
自分は小さい時から小説が好きなので、外国語を学んでからも、暇があれば外国の小説を読んでゐる。どれを読んで見てもこの自我が無くなるといふことは最も大いなる最も深い苦痛だと云つてある。ところが自分には単に我が無くなるといふこと丈ならば、苦痛とは思はれない。只刃物で死んだら、其|刹那《せつな》に肉体の痛みを覚えるだらうと思ひ、病や薬で死んだら、それぞれの病症|薬性《やくせい》に相応して、窒息するとか痙攣《けいれん》するとかいふ苦みを覚えるだらうと思ふのである。自我が無くなる為めの苦痛は無い。
西洋人は死を恐れないのは野蛮人の性質だと云つてゐる。自分は西洋人の謂《い》ふ野蛮人といふものかも知れ
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