竄、で、その目はなんの表情もなく空を見てゐる。その声は不断テノル調であるのにこの時はヂスカント調になつてゐる。ちよいと聞くと浮かれてゐるのかと思はれるが、その言語が如何にも明晰で、その思想が如何にも沈着で、決して浮かれてゐるのでないことが分かる。己は友達のさう云ふ様子を見る度に、古代の哲学にある一|人《にん》二霊説を思ひ出さずにはゐられない。どうも創造的性質のドユパンと分析的性質のドユパンとがあるやうなのが、己には面白く思はれた。
 かう云つたからと云つて、己が何か秘密を訐《あば》かうとするだらうだの、小説を書くだらうだのと思ふのは間違である。このフランス人に就いて己の話すのは簡単な事実に過ぎない。その事実は過度に働いてゐる、事に依つたら病的な悟性の作用かも知れない。当時のこの人の観察の為方は次の例を以て人に理解させるのが最も適当であらう。
 或る晩のことであつた。我々二人はパレエ・ロアイアルの附近の長い、汚い町を、ぶら/\歩いてゐた。二人とも何か考へ込んでゐたので、十五分間程一|言《ごん》も物を言はずにゐた。突然ドユパンが云つた。
「実際あいつは馬鹿に小さい男で、どうしても寄席に出た方が柄に合つてゐるね。」
「無論さうさ。」
 己は覚えずこの返事をした。余り深く考へ込んでゐたので、己は最初この問答をなんの不思議もないやうに思つた。併しこの問答は己の黙つて考へてゐることの続きになつてゐる。
 己はそれに気が付いたので、びつくりせずにはゐられなかつた。己は真面目に云つた。
「おい。ドユパン。あんまり不思議ぢやないか。正直に言ふが、今の話は実際君の口から出て僕の耳に這入つたのだか、どうだかと疑はずにはゐられないね。僕の腹の中で考へてゐたことをどうして君は知つたのだ。君には全く僕が誰の事を思つてゐたと云ふのが分かつたのかい。」己はかう云つてドユパンが真にその人が誰だと云ふことを中《あ》てたのだか、たしかめて見ようと思つた。
「無論シヤンチリイの事さ。なぜ君話を途中で止めたのだい。さつき君はあいつが余り小柄だから、悲壮劇の役を勤めるのは無理だと思つてゐたぢやないか。」
 実際己はさう思つてゐた。シヤンチリイと云ふのは元サン・ドニイ町の靴屋で、それが俳優になつてゐるのである。そいつが此間クレビリヨンの作クセルクセスの主人公を勤めた。そして非常な悪評を受けたのである。
 己は云つた。「どうぞ君僕に言つて聞かせてくれ給へ。一体どんな方法で僕の心が読めるのだい。若しさう云ふ法があるものなら、それを聞かせてくれ給へ。」詞《ことば》ではかう云つたが、己の不審はとても詞で言ひ現されない程であつた。
 友達は云つた。「君、あの果物屋を見て、それから靴屋のシヤンチリイがクセルクセスだとか、その外古代劇に出て来る英雄の役に不適当だと云ふことを考へたのだらう。」
「果物屋だつて。どんな果物屋だい。僕にはまるで心当がないが。」
「それ。さつきの町の曲角で君に打《ぶ》つ付かつた男さ。さうさね。十五分ばかり前だつたかな。」
 かう云はれて己は思ひ出した。成程己が|C町《セエまち》から今立つてゐる抜道に曲り掛かつた時、林檎を盛つた大籠を頭に載せた男が己に打つ付かつて、己は倒れさうになつたのだ。併しそれとシヤンチリイとの間にどんな連絡があるか、己にはまだ分からない。
 併しドユパンは決して※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]衝《うそつ》きではなかつた。己に説明して聞かせたところはかうである。「そんなら君に言つて聞かせよう。君に得心の行くやうに思想の連鎖を逆に手繰つて見よう。まづ君の考へ込んでゐる時、僕が突然声を掛けた、あの時を起点として、あれから逆に戻るのだね。そしてあの果物屋の打つ付かつた時まで帰り着けば好いわけだね。この連鎖の主な廉々《かど/\》は一、シヤンチリイ二、オリヨン三、ドクトル・ニコルス四、エピクロス五、立体幾何学六、敷石七、果物屋とかう云ふ順序だよ。」
 思想が転変して或る帰着点に到達する順序を逆に考へて見ると云ふ事は、随分誰でも遣つて見る事である。さう云ふ事は随分面白い。始て遣つて見た人は、その連鎖の始と終とを並べて見て、その二つが非常に懸隔してゐるのに驚くだらう。己は友達の話を聞いて非常に驚いた。それが事実であつたからである。
 友達はかう云つた。「もし僕の記憶が誤つてゐなかつたら、君と僕とはC町から曲る前に馬の話をしてゐたね。それ切り物を言はなくなつたのだ。それから角を曲つてこの抜道に出るとたんに、林檎を盛つた大籠を頭に載せた果物屋が駈けて来て、君に打つ付かつた。その時君は往来に敷く敷石の積んであるのに足を蹈み掛けた。その石がぐら付くと、君はすべつて少し足を挫いた。その時君は腹を立てゝ、何か口の内でつぶやいて、積んである石を一目見
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