s方は最初不明なりき。既にして人々はカミン炉の上に多量の煤《すゝ》あるを見て、試に炉中を検せしに、人の想像にも及ばざる程の残酷なる事実を発見せり。女主人の娘の屍体|倒《さか》さまに炉の煙突に押し込みありしことこれなり。頭を下にして、非常なる暴力を以て狭き煙突内に押し込みたるなり。体には猶温みありき。皮膚を検するに許多の擦傷《すりきず》あり。多くは強ひて煙突に押し込みし時生じたるものなるべく、その一部分は引き出す時生じたらんも知るべからず。顔には引き掻きたる如き深き傷あり。前頸部には指尖にて圧したる如き深き痕あり。又暗紫色なる斑あり。これ等は絞殺したるにはあらずやと想像せしむ。
 人々は屋内所々を精密に捜索せしに、前記の他には別に発見する所なきを以て屋後なる中庭に出たり。中庭は石を敷き詰めあり。この中庭に女主人の屍体ありき。前頸部より非常に深く切り込みたる創あり。僅に項《うなじ》の皮|少許《せうきよ》にて首と胴と連りゐたる故、屍体を擡《もた》ぐる時、首は胴より離れたり。首もその他の体部も甚しく損傷しあり。就中《なかんづく》胴と手足とは、殆ど人の遺骸とは認められざる程変形せり。
 右の恐るべき殺人犯は何者の所為《しよゐ》なるか、余等の探知したる限にては、その筋に於て未だ何等の手掛かりをも得ざるものゝ如し。」
 翌日の新聞には、この残酷なる犯罪に関したる記事の続稿を載せたり。その文に曰く。
「病院横町の悲劇。古来|未曾有《みそう》の惨事たる本件に関し、審問を受けたる者数人あり。何人の告条も本件に光明を投射するに足らずと雖、左に一々これを列記せんとす。
 ポオリイヌ・ドユブウルは洗濯を業とする婦人なるが、次の申立をなせり。本人はレスパネエ夫人及その娘と相知ること三年に及べり。これレスパネエ家の洗濯物を引受けゐたるが為めなり。老婦人と娘とは平生仲好く暮し、互に鄭重に取扱ひゐたり。洗濯代は滞なく潤沢に払ひくれたり。生活費は如何なる財源より出でたるか知らず。風聞に依れば、夫人は巫女《みこ》を業とし、人の為めに禍福を占ひ、その謝金を貯へたりと云ふ。本人は洗濯物を受け取りに往き、又返しに往きし時、来客ありしを見たることなし。母子が全く奉公人を使ひをらざりしことは確実なり。家屋には第四層の外、何処《いづこ》にも家財を備へあらざりしものゝ如し。
 ピエエル・モロオは煙草商なり。その申立次の如し。本人は殆ど四年前より少量の刻煙草及嗅煙草をレスパネエ夫人に売却しをれり。本人は近隣にて生れしものにて未曾つて住所を離れたることなし。レスパネエ家の母子は彼屍体を発見したる家に移住してより六年余になれり。彼家屋には初め宝石商の住めるありて、その人は上層の諸室を種々の貸借人に貸しゐたり。元来家屋はレスパネエ夫人の所有なりしに、宝石商これを借り受けをり、濫に上層を他人に又貸ししたる故、夫人はその所為に慊焉《けんえん》たるものあり。終に自ら屋内に移り来て、それより上層を何人にも貸すことなかりき。老夫人は子供らしくなりゐたり。本人は前後六年の間にレスパネエ家の娘に五六回会見せり。母子とも社交を避けゐたり。世評に依れば財産家なりしものゝ如し。本人は隣家の人の口より老夫人が巫女《みこ》なりしことを聞きしが信ぜざりき。老夫人の家に出入する人は殆ど絶無にて、母子の外出するを見掛けし外には、門番の男の顔を一二回見たると、医師の出入するを八九回見たるとを記憶するのみ。
 その外近隣の人数人の申立あれども皆大同小異なりき。人の全く出入せざる家なれば、母子に親族の現存せるものありや否やを知るものなし。家の前側《ぜんそく》の窓は曾つて開きありたることなし。中庭に向ひたる窓はいつも閉ぢありて、只第四層の奥の広間の窓のみ開きありき。家は堅牢なる建築にて未だ古びをらず。
 イジドオル・ミユゼエと云ふ憲兵卒の申立は次の如し。本人は午前三時頃レスパネエ家に呼ばれたり。戸口に到着せし時には、二三十人の人屋内に押し入らんとしてひしめきゐたり。本人は已むことを得ず銃剣を用ゐて扉を開きたり。鉄棒を用ゐしにあらず。扉は観音開にて、おとしの如きもの上下ともになかりしゆゑ銃剣にて開くことは容易なりき。叫声は扉を開くまで聞えたりしが、開き終りし時突然止みたり。叫声は一人なりや数人なりや明かならざりしが、必死になりて発せしものゝ如くなりき。高声を長く引きたり。忙《いそが》はしげに短く発したる声にはあらざりき。本人は戸口にありし数人と共に梯子を登りたり。第一の梯子を登り終りし時、二人の声を聞き分くることを得たり。二人は声高に物を争ふものゝ如くなりき。一人の声はあららかにそつけなく聞えたり。今一人の声は一種異様なる鋭き声なりき。前の人の詞は一二語を辨別することを得たるが、その人はフランス人なりしものゝ如し。無論女子に
前へ 次へ
全16ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング