ト、それから黙つて歩き出した。僕は別段君に注意してゐたわけでもないが、どうもこの頃物を観察するのが癖になつてゐるもんだから為方《しかた》がない。そこで見てゐると、君は下を向いて歩いてゐる。そして腹立たしげに敷石の穴や隙間を見てゐる。そこで君が敷石の事を考へてゐると云ふことが分かつたのだね。するとラマルチン町の所に来た。あそこには試験的に肋状《あばらなり》に切つて噛み合せるやうにした石が敷いてあつた。それを見た時、君の顔色が晴やかになつて、君は口の内で何やら言つた。君の唇を見ると、その詞が『ステレオメトリイ』と云ふ詞らしかつた。立体幾何学だね。あの敷石を見てそんな名を付けるのは、随分大袈裟だつたには相違ないよ。君はその詞を口にした跡で、直ぐに『アトオム』と云ふ事を考へた。元子だね。極微《ごくみ》だね。それから哲学者エピクロスの教義を思ひ出した。ところが此間君と哲学談をした時、お互にかう云ふことを言つたね。あの君子風のグレシア人は空想で説を立てたのだが、近世コスモゴニイの研究が出来てから、天体の発展が分かつて来て、エピクロスの説いた事が事実的に証明せられたと云つたね。そこで君がエピクロスの教義を思ひ出したからには、君はそれと同時に、多分オリヨン星の霧を仰向いて見るだらうと、僕は考へた。君は果して仰向いて天を見た。そこで僕の推測の当つたのが分かつた。ところできのふあのミユゼエと云ふ雑誌に俳優シヤンチリイを嘲つた諷刺的批評が出たね。あの批評の中にシヤンチリイが靴屋を止めて舞台に出た時、名を変へたことを冷かしてラテンの詩句が引いてあつた。Perdidit antiquum litera prima sonum と云ふのだね。この詩句に就いては、僕が前に君に話した事がある。僕の云つたのは、この詩句はオリヨン星の事を指したもので、オリヨンの古い名はユリヨンだつたと云つたね。この説明はその時の事情から推すと、君が忘れずにゐるものと考へられるのだね。そこで君はどうしてもオリヨン星を見ると同時に、俳優シヤンチリイの事を思ひ出さずにはゐられないと、僕は考へたね。この推察が当つたと云ふことは、そのとたんに君の唇に現れた微笑で証明することが出来たのだ。君はあの時靴屋上がりのシヤンチリイが劇評家にひどく退治られたのを思ひ出したのだね。それまで君は背中を円くして歩いてゐたところが、丁度その時君は
前へ
次へ
全32ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング