ノして物を言つてゐるやうな一種の調子になつてゐる。その目はなんの表情もなく向うの壁を見詰めてゐるのである。
「あの梯子を登つて行く人達が聞いたと云ふ、喧嘩をしてゐたものゝ声が女親子の声でないと云ふ事は、証人の申立で証明せられてゐると云つても好からう。さうして見るとお婆あさんが娘を殺して置いて自殺しただらうと云ふ推察は、頭から問題にならない。こんな事を言ふのは余計な事だが、順序を正して話す為めに、僕は言つて置くのだ。お婆あさんには娘の死骸を煙突の中へ押し込む腕力もあるまいし、又お婆あさんの体の創を見ても、自分で付けられる創でないことは分かる。さうして見ると第三者の下手人がなくてはならない。この下手人は単独でないことが、例の物争をした声で分かる。まあ、新聞の中であの声のことを言つてゐる申立を読み返して見給へ。一々皆読んで見なくても好い。目立つたところを繰り返して見れば好い。そこで君には何か特別な事が目に留まりはしないかね。」
 己は簡単に答へた。それはそつけない声をしたのがフランス人で男だと云ふには、殆ど異論がないのに、今一つの鋭い声を出したものに就いては証人毎に変つた判断をしてゐると云ふ点だと答へたのである。
「君の云ふのは証言其ものであつて、その目立つのが何物だと云ふことにはなつてゐない。さうして見ると君にはその特別なところが分からないらしいが、たしかに特別なところがあるのだよ。君の云ふ通りどの証人も所謂《いはゆる》そつけない声に就いては異論がなかつた。ところが所謂鋭い声となると区々《まち/\》なことを云つてゐる。イタリア人だとか、イギリス人だとか、スパニア人だとか、フランス人だとか云ふが、要するにその申立をした人が自国の人でなくて、外国の人だと思つたのだ。仮令《たとへ》ばフランス人の云ふにはあれは、多分スパニア人であつただらう、若し自分にスパニア語が分かつたら、何を言つたか、一言や二言は分かつたに違ひないと云ふ。又フランス語を知らないので、通訳を以て申し立てたオランダ人は、その鋭い声をフランス人だらうと云ふ。ドイツ語の分からないイギリス人はドイツ語だらうと云ふ。イギリス語の分からないスパニア人は、発音から推測してイギリス人だらうと云ふ。ロシア人の談話を聞いたことのないイタリア人はロシア語だらうと云ふ。イタリア語の分からない、今一人のフランス人はイタリア語だらうと云
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