った客の中には、外に知人もなかったのを幸《さいわい》に、僕は黙って起って、舟から出るとき取り換えられた、歯の斜に耗《へ》らされた古下駄を穿いて、ぶらりとこの怪物《ばけもの》屋敷を出た。少し目の慣れるまで、歩き艱《なや》んだ夕闇《ゆうやみ》の田圃道には、道端《みちばた》の草の蔭で※[#「虫+車」、第3水準1−91−55]《こおろぎ》が微《かす》かに鳴き出していた。
* * *
二三日立ってから蔀君に逢ったので、「あれからどうしました」と僕が聞いたら、蔀君がこう云った。「あなたのお帰りになったのは、丁度好い引上時でしたよ。暫く談《はなし》を聞いているうちに、飾磨屋さんがいなくなったので聞いて見ると、太郎を連れて二階へ上がって、蚊屋《かや》を吊《つ》らせて寐たと云うじゃありませんか。失礼な事をしても構わないと云うような人ではないのですが、無頓着《むとんじゃく》なので、そんな事をもするのですね」と云った。
傍観者と云うものは、やはり多少人を馬鹿にしているに極《き》まっていはしないかと僕は思った。
底本:「山椒大夫・高瀬舟」新潮文庫、新潮社
1968
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