はファブリイス夫人こころに秘めて族《うから》にだに知らせたまわず、女官の闕員《けついん》あればしばしの務めにとて呼び寄せ、陛下のおん望みもだしがたしとてついにとどめられぬ」
「うき世の波にただよわされて泳ぐ術《すべ》知らぬメエルハイムがごとき男は、わが身忘れんとてしら髪《が》生やすこともなからん。ただ痛ましきはおん身のやどりたまいし夜、わが糸の手とどめし童なり。わが立ちしのちも、よなよな纜《ともづな》をわが窓のもとにつなぎて臥《ふ》ししが、ある朝羊小屋の扉のあかぬにこころづきて、人々岸辺にゆきて見しに、波むなしき船を打ちて、残れるはかれ草の上なる一枝《いっし》の笛のみなりきと聞きつ」
 かたりおわるとき午夜《ごや》の時計ほがらかに鳴りて、はや舞踏の大休みとなり、妃はおおとのごもりたもうべきおりなれば、イイダ姫あわただしく坐をたちて、こなたへさしのばしたる右手《めて》の指に、わが唇触るるとき、隅の観兵の間に設けたる夕餉《スペエ》に急ぐまろうど、群らだちてここを過ぎぬ。姫の姿はその間にまじり、次第に遠ざかりゆきて、おりおり人の肩のすきまに見ゆる、きょうの晴衣《はれぎ》の水いろのみぞ名残りな
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