はファブリイス夫人こころに秘めて族《うから》にだに知らせたまわず、女官の闕員《けついん》あればしばしの務めにとて呼び寄せ、陛下のおん望みもだしがたしとてついにとどめられぬ」
「うき世の波にただよわされて泳ぐ術《すべ》知らぬメエルハイムがごとき男は、わが身忘れんとてしら髪《が》生やすこともなからん。ただ痛ましきはおん身のやどりたまいし夜、わが糸の手とどめし童なり。わが立ちしのちも、よなよな纜《ともづな》をわが窓のもとにつなぎて臥《ふ》ししが、ある朝羊小屋の扉のあかぬにこころづきて、人々岸辺にゆきて見しに、波むなしき船を打ちて、残れるはかれ草の上なる一枝《いっし》の笛のみなりきと聞きつ」
かたりおわるとき午夜《ごや》の時計ほがらかに鳴りて、はや舞踏の大休みとなり、妃はおおとのごもりたもうべきおりなれば、イイダ姫あわただしく坐をたちて、こなたへさしのばしたる右手《めて》の指に、わが唇触るるとき、隅の観兵の間に設けたる夕餉《スペエ》に急ぐまろうど、群らだちてここを過ぎぬ。姫の姿はその間にまじり、次第に遠ざかりゆきて、おりおり人の肩のすきまに見ゆる、きょうの晴衣《はれぎ》の水いろのみぞ名残りなりける。
[#地から1字上げ]明治二十四年一月
底本:「日本の文学 2 森鴎外(一)」中央公論社
1966(昭和41)年1月5日初版発行
1972(昭和47)年3月25日19版発行
初出:「新著百種 第12号」吉岡書籍店
1891(明治24)年1月28日
※修正箇所は「舞姫・うたかたの記 他三篇」(岩波文庫、1981)を参照しました。
入力:土屋隆
校正:小林繁雄
2005年10月5日作成
2006年3月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全16ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング