の数々は、運河のうねりの数々よりも多く、その記念のかゞやきは、運河の水の光より強い。今から思つて見ても、あの生活を永遠に継続することが出来たなら、己は別に何物をも求めようとはしなかつただらう。あの生活をどう変更しようと云ふ欲望は、己には無かつただらう。只目の前にゐる美しい女の微笑《ほほゑみ》が折々変つて、その唇が己に新なる刺戟を与へてくれさへしたら、己はそれに満足してゐただらう。
併しバルタザルはさうは思はなかつた。己の胸はあれが館の窓々が鎖されて、只白壁の上に淡紅色の大理石の花ばかりが開くやうに見えてゐた時、どんなにか血を流しただらう。バルタザルは遠い旅に立つた。世間を見ようと思つたのである。あれは三年の間遠い所にゐた。そして去る時飄然として去つたやうに、或る日、又飄然として帰つて来た。朝が来れば、あれの声が石階の上から又己を呼ぶ。晩にはあれと己とが又博奕の卓を囲む。己達は又昔の通りの生活を始めた。そのうち或る日不思議な出来事があつて、あれを永遠に復《ま》た起つことの出来ないやうにしてしまつた。それからと云ふものは、あれはサン・ステフアノの寺の石畳みの下に眠つてゐる。両手を胸の創口の上に組み合せて眠つてゐる。
それだから己の口から今諸君にあれが身上話をしなくてはならぬことになつた。そこで己、ロレンツオ・ヰラミは諸君にことわつて置くが、己の話すのは、己の確かに知つてゐる事でほ無い。只あれが不思議な死を説明するために、己の推察したあれが生涯である。只或る夜、幹の赤い縦の木の林で、己の友人のヱネチア人、バルタザル・アルドラミンが己に囁いだやうに思はれた伝記である。
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ロレンツオや、聞いてくれ。或る日の事であつた。己(バルタザル)は情人バルビさんと一しよにスキアヲニ河の岸に立つてゐた。バルビさんは日の当たる所にゐるのが好きだつた。それは髪が金色をしてゐて、それが日に照されると、美しく光るからだ。その光るのが己の気に入ると思つてゐたからだ。なんでも自分の美しい所を己に見せて、己に気に入るやうにと努めてゐたのだ。そこでなる丈久しく日の当たる所にゐようと思つて、自分のまはりを飛び廻つてゐる鳩に穀物を蒔いて遣るのが面白いと云つた。バルビさんの手から散る粒は、金色の雨が降るやうに見えた。併し己にはバルビさんは容色が余り気に入つてゐなかつたので、それを眺めてゐる代りに、その手から餌を貰つてゐる小鳥を見てゐた。十二羽位もゐただらう。羽は滑かで、足には鱗が畳なつてゐて、吭《のど》は紫掛かつて赤く、嘴は珊瑚色をしてゐる。皆むく/\太つてゐるのに、争つて粒を啄《ついば》んでゐる。この卑しい餌を食ふのが得意らしい。そのうち鳩は仲間を呼び寄せた。仲間が密集してそこへおろして来た。このとたんに己は目を転じて赫くラクナの水を見た。一羽の大きい純白な鴎が咳嗄《しはが》れた声をして鳴きながら飛んで通つた。鋭い翼で風を截つて、力強く又素早く飛ぶ。己は此時鳩と鴎との懸隔に心附いて、己の身の上を顧みた。なんだかあの水鳥が己に尊い訓誨を垂れてくれたやうであつた。けふはこゝに、あすは遠方に、いつも活動してゐる水鳥の気象は、毎日暖い敷石の上で僥倖の餌を争つてゐる鳩とは違ふと思つた。ロレンツオや、聞いてくれ。己はこの鳥の寓言を理解したのだ。
ロレンツオや。己は即日世間へ出て、その千態万状の間に己の楽を求めようと発意《ほつい》した。先づ己の第一の最愛の友たるお前を回抱《くわいはう》して別を告げた。次にバルビさんに暇乞をした。それから銀行へ往つた。そして喜んで己の命を聴く役人共の手に金をわたした。どこへ往つてもたつぷり金を賭けて、博奕をして、土地の流行《はやり》の衣服《きもの》を着て、その外勝手な為払《しはらひ》をするに事足る程の金をわたした。
それから出立した。ゴンドラの舟に身を托して陸に上つた。ヱネチアの運河の網は、少し乗り廻つてゐると、川筋がちよつと曲がると思ふや否や、元の所に帰つてゐる。なんだか自分が往来で自分に出逢ふやうな気がする。それに今陸に上《のぼ》つて見ると、これから真直にどこまででも行かれる。元の所に帰るやうな虞《おそれ》は無い。これまでとは大ぶ工合が違ふ。ずん/\歩いて行くうちには、きつと何か新しい事に出逢ふに違ひ無い。乗つてゐる馬車からして己には面白い。巌畳に出来てゐて、場席《ばせき》も広い。己は先づゆつたりと身をくつろげた。車の輪が一廻転する毎に、並木の木が一本|背後《うしろ》へ逃げる毎に、己は今までに知らぬ歓喜を覚えた。一匹の小犬が己の馬車に附いて走りながら、己の顔を見てひどくおこつて吠える。己はそれを見て、涙の出る程笑つた。そんな風で、どんな瑣細な事でも、己に面白く無いものは無かつた。
己は親類の老人アンドレ
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