略してはゐなかつたが、兎に角己は驚いてゐたには違ひ無い。なぜと云ふに己は突然かう云ふことを聴き取つたのだ。己は只即坐に立ち上がつて、さつき気にした、あの窓の鎖してある部屋に往けば好い。そこには寝台の上に眠つてゐる女があると云ふのだ。それに就いて己は誓言《せいごん》をさせられた。それはその女が何者だとか、どこから来たのだとか云ふことを、決して探らうとしてはならぬと云ふのだ。それから己はかう云ふことを先づ以て教へられた。その女は必ず多少抗抵を試みるだらう。併し主人は己をそれに打ち勝つ丈の男と見込んで頼むと云ふのだ。いかにも己にはその位の気力はある。
己は急劇な猛烈な欲望の発作を感じた。己は立ち上がつた。それと同時に周囲の鏡にうつつてゐる大勢のバルヂピエロが一斉に立ち上がつた。そしてその中《うち》の一人が己の手を取つて、鏡の広間を出た。
広間を出て見れば、寂しい別荘はどこも皆真つ暗だつた。主人は己を延《ひ》いて、梯《はしご》を一つ登つた。その着てゐる長い上衣の裾が、大理石の階段の上を曳いて、微かな、鈍い音をさせる。己の靴の踵がその階段を踏んで反響を起す。幾度《いくたび》も廊下の角を曲がつた末に、主人と己とは一つの扉の前に立ち留まつた。鍵のから/\鳴るのが聞えた。続いて鍵で錠を開けた。油の引いてある枢《くるる》が滑かに廻つて、扉が徐《しづ》かに開いた。主人は己の肩を衝いて、己を室内へ推し遣つた。
己はひとり闇の中に立つてゐた。深い沈黙が身辺を繞つてゐる。己は耳を澄まして聞いた。微かな、規則正しい息遣ひが聞えるやうだ。室内は只なんとなく暖く、そして匂のある闇であつた。
此夜は奇怪な、名状すべからざる夜であつた。
己はこの室内で、不思議なことに遭遇して、そのうちにどれだけ時間が立つたか知らない。
やう/\己は起つて戸口に往つた。そして肩で扉を押し開けようとした。併し扉は開かない。誰か外から力を極めて開けるのを妨げてゐるやうだつた。その隙《ひま》に衣服のさわつく音がして、続いて廊下を歩み去る軽い足音がした。
己は又扉を押した。戸は開いた。己は二三歩出て、又跡へ引き返さうとした。暁の薄明かりと共に再び室内へ帰らうと思つたのだ。併し己は前の誓言を思ひ出して、急ぎ足にそこを立ち退いた。
廊下が尽きて梯になる。梯の下の前房には人影が無い。己は柱列のある所に出た。朝の空気には柑子の香が籠つてゐる。
己の馬車には馬が附けて中庭に待たせてある。己は車に乗つた。そして車が動き出すと共に、己はぐつすり寐入つた。
バルヂピエロの別荘での不思議な遭遇は、己を夢のやうな状態に陥いらせた。旅の慰みが次第に此夢を醒した時、己は其顛末を考へて見て、どうした事か分からぬやうに思つた。又それをどうして分からせようと云ふ手段も、己には見出されない。一体あの沈黙した未知の女は誰だつたか。それに対してバルヂピエロの取つた手段にはどう云ふ意味があつたのか。主人があの女を憎んで己を復讐の器械に使つたのだらうか。それとも主人はわざと只周囲の状況を秘密らしくして、己にする饗応に味を加へたまでの事か。
己はミラノへ来た。滞留が長引いた。己は上流の人達と一しよに遊び暮らした。己を優待してくれた女は大勢ある。その中で己を一箇月以上楽ませてくれたのが一人ある。其女は己に自分の内で逢つたり、芝居で逢つたり、又己と一しよに公園を散歩したりした。夜|燭火《ともしび》の下で逢ふ時は、其女は顔をも体をも己に隠さなかつた。そのうちにバルヂピエロの別荘にゐた未知の女の俤は、己の記憶の中で次第に朧気になつて、己がフランスへ旅立つ頃には、とう/\痕なく消えてしまつた。
パリイと云ふ美しい都会の遊興は、その多寡を以て論じても、その精粗を以て論じても、全く人の意表に出てゐる。己はあらゆる遊興に身を委ねて、月日の過ぎるのを忘れてゐた。舞踏があり、合奏会があり、演劇があるが、そればかりでは無い。バルヂピエロの紹介状が用に立つて、己は種々《しゆ/″\》の立派な人達に交際することが出来た。己は昏迷の中《うち》に日を送つて、ヱネチアの事やそこの友達の事を忘れてしまつた。併しそれは己ばかりの咎《とが》では無い。ロレンツオや、君も外の友達も己を忘れてゐたやうだ。そんな風で殆ど一年ばかり立つた。
己はペロンワルと云ふ女を情人にしてゐた。体の小さい、動作の活溌な、舞踏の上手な女であつた。己は此女とロンドンへ往つた。これは女のためには職業上の旅行で、己はその道中の慰みに連れて行かれたのだ。ところがロンドンでロオド・ブロツクボオルと云ふ大檀那《だいだんな》が段々不遠慮に此女に近づいて来て、女は又ロオドと己との共有物になりたさうな素振をして来た。そこで己はペロンワルと切れた。
パリイに帰つて見ると、イタリアから己
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