計と慣熟した境遇とを脱離したやうな感じが、己の胸一ぱいになつてゐたので、自分が極めて奇怪な極めて愉快な目的に向つて往くのだと云ふことが、己には争ふべからざる事実のやうに思はれた。こんな我ながら不思議な期待の情のお蔭で、現在の心で観察すれば、尋常一般の物が皆異様の形相を呈するやうに見えた。今歩いてゐる、細かい粒の揃つた砂の敷いてある庭の小径も、一曲り曲つた向うには、意外な眺望が展開しはせぬかと疑はれた。円形に苅り込んである「あさまつげ」の木を見れば、そのこんもりした緑の中にも秘密が蔵してありはせぬかと疑はれた。
かう云ふ心持で己は或る岩窟《いはむろ》の前に来た。入口は野生の葡萄が鎖してゐる。もう日は瑣《やゝ》西に傾いてゐるが、外は暑いから、常なら己は只涼しい蔭を尋ねて其中に這入つただらう。然るに此時入口を這入る己の心の臓は跳つた。この田舎めいた岩窟の中の迂回した道を歩いて行つたら、際限の無い不思議のある処、又事によつたら己の生涯の禍福が岐《わか》れる処に出はせぬかと思つたからだ。
岩窟の中は涼しくて愉快であつた。湿つた石壁に凝《こ》つて滴《した》たる水が流れて二つの水盤に入る。寂しい妄想《まうざう》に耽りながら此中の道を歩く人に伴侶を与へるためか、穹窿《きうりう》には銅で鋳た種々《いろ/\》の鳥獣《とりけもの》が据ゑ附けてある。最初這入つた一室の奥には第二の瑣暗い室がある。その又奥には第三の全く暗い室がある。こゝでは只水の滴たり落ちる声が聞える。それがこの寂寞の境の単調な時間の推移を示す天然の漏刻《ろうこく》かとあやまたれる。床《とこ》にはひどい凸凹《とつあふ》がある。己は闇の中を辿つて行くうちに足を挫きさうになつた。その先きは低い隧道《すゐだう》になつたので、己は腰を屈《かゞ》めて進んだ。折々岩角が肩に触れる。暫く歩くうちに屈めた腰が疲を覚えて来た。己は推測した。多分此道はわざと難渋にしてあるのだらう。こゝを通り過ぎて、又日の目を見、軽らかな空気を呼吸する時の喜を大きくするために、わざと難渋にしてあるのだらうと云ふのである。此推測は吾を欺かなかつた。潜り抜けて出た処は、絶勝の地点で庭園の全体は勿論、別荘の正面と其|石柱《いしばしら》の美しい排列とをも見わたすやうになつてゐる。晴れ切つた空を、別荘の屋根の線がかつきりと横断してゐる。己はこれを眺めながら、あさまつげの苦味のある香《か》と、柑子《かうじ》の木の砂糖のやうに甘い匂とを吸つてゐた。
己は此二様の香気を嗅いでゐるうちに、ふと妙な事に気が附いた。それは別荘の窓は悉《こと/″\》く開け放つてあるのに、只一箇所の窓丈鎖してあると云ふ事である。熟《よ》く視れば、この二つの窓は重げな扉で厳重に閉ぢてある。全体の正面は開けた窓の硝子《ガラス》に日光がさして光つてゐる。この二つの密閉した窓丈が暗い。なぜだらうか。己が怪訝《くわいが》の念を禁じ得ずして立つてゐると、己の肩の上に誰やらの手が置かれた。それは主人バルヂピエロの手であつた。主人は今一つの手には己のために書いた紹介状を持つてゐて、それを己にわたした。
二
己は礼を言つて、すぐに出立しようとした。まだノレツタまで往つて泊られる丈の日足は十分あつたのだ。ところが意外にも主人は己を留《と》めて一晩泊らせようと云つた。己はとう/\主人の意に任せることにして、それから二人で庭を歩いた。主人は己にまだ見なかつた所々を案内して見せた。主人の花紋のある長い上衣の褄が、砂の上を曳いてゐる。そして手には長い杖を衝いてゐて、折々その握りの処を歯で噬《か》む癖がある。
バルヂピエロはまだ杖に縋つて歩くやうな体では無い。綺麗に剃つた頬に刈株のやうな白い髯の尖が出掛かつてはゐるが、体は丈夫でしつかりしてゐる。己達は緑の木立に囲まれた立像の前に足を駐めた。主人はその裸体を褒めたが、其|詞《ことば》は此人が形の美を解してゐると云ふことを証する詞であつた。その外主人は杖の握りに附いてゐる森のニンフをも褒めたが、その褒めかたに己は殊に感服した。そのニンフの彫物《ほりもの》は、主人の太い、荒々しい手で握つてゐる杖の頭《かしら》に附いてゐて、指の間からはそれを鋳た黄金《わうごん》がきら附いてゐるのである。
そのうち食事の時刻になつた。奢《おごり》を極めた食事で、随分時間が長く掛かつた。己達の食卓に就いたのは、周囲の壁に鏡を為込《しこ》んだ円形の大広間であつた。給仕は黒ん坊で、黙つて音もさせずに出たり這入つたりする。その影が鏡にうつつて、不思議に大勢に見えるので、己はなんだか物に魅せられたやうな心持がした。黒ん坊は※[#「糸へん+求」、第4水準2−84−28、91−下−7]《ちゞ》れた毛の上に黄絹《きぎぬ》の帽を被《かぶ》つてゐる。帽の上には鷺
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