た。己は闥《たつ》を排して闖入しようとしたことが二十|度《たび》にも及んだだらう。さて最後に御身が戸を開けて出た時、己は却つて廊下伝ひに逃げ去つた。なぜかと云ふにあの時御身の顔を見たら、己には御身を殺さずに置くことが出来なかつたからだ。己は自分の徳としなくてはならぬ御身を殺すに忍びなかつたのだ。実に嫉妬の効果には驚くべきものがある。己の嫉妬は己の気力を恢復せしめた。己はあの時に再生した其気力を使役してゐる。
あの女は漸く自分の境遇に安んずる態度を示して来た。そこで己は女を密室から出した。鏡の間の壁に嵌めた無数の鏡は、女の艶姿《えんし》嬌態《けうたい》を千万倍にして映じ出だした。庭園には女の軽々とした歩みの反響がし始めた。己が晩年に贏《か》ち得た、これ程の楽しい月日は、総て是れ御身の賜ものだ。己は折々女と一しよにあの岩窟《いはむろ》に入《い》ることがある。其時は女の若やかな涼しい声が、あの岩の隙間から石盤の中に流れ落ちる水の音にも優つて聞える。己は幸福の身となつた。女は己に略奪せられたことをも、過度の用心のために己に拘禁せられてゐたことをも、最早遺恨とはしないらしかつた。今の新生活が女には気に入るらしかつた。女は此間に己の心を左右する無制限の威力を得た。己はとう/\御身の名を白状した。女は今御身が誰だと云ふことを知つてゐる。そして己を憎むと同じやうに、御身をも憎んでゐる。
女は毎晩己にジエンツアノの葡萄酒一杯を薦める。黒ずんだ、ふくよかな瓶を繊《ほそ》い指で擡《もた》げて酌をする姿はいかにも美しい。酒は青み掛かつた軽い古風な杯に流れ入る。唇に触れて冷やかさを覚えさせる此杯を、己は楽んで口に銜《ふく》む。併し己は此酒には丁寧に毒が調合してあることを知つてゐる。女は毎目手づから暗赤色《あんせきしよく》の薬汁《やくじふ》を、酒の色の変ぜぬ程注ぎ込んで置く。己は次第に身に薬の功験を感じて来る。己の血は次第に脈絡の中に凝滞して来る。なぜ己は甘んじて其杯を乾すかと云ふに、己の命にはもう強ひて保存する程の価値がないからだ。均《ひと》しく尽きる命数を、よしや些《ちと》ばかり早めたと云つて、何事かあらう。可哀《かはい》い娘が復讐の旨味《しみ》を嘗《な》めるのを妨げなくても好いではないか。己は毎晩その恐ろしい杯を、微笑を含んで飲み干してゐる。
併し、我が愛する甥よ。御身はまだ若い。
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