飲み続けて、肴には果物を食つた。その果物は黒ん坊が銀の針金で編んだ籠に盛つて持つて来たのだ。己は果物の旨いのを機会として、主人に馳走の礼を言つた。主人がこれに答へた辞令は頗る巧なものだつた。余り思ひ設けぬ来訪に逢つたので、心に思ふ程の馳走をすることが出来ない。只庭を見せて食事を一しよにする位の事で堪忍して貰はんではならない。その食事も面白い相客を呼び集める余裕は無いから、自分のやうな不機嫌な老人を相手にして我慢して貰はんではならない。せめて音楽でもあると好いのだが、それも無いと云ふのだつた。己はかう云ふ返事をした。相客や音楽は決して欲しくは無い。先輩たる主人と差向ひで静に食事をするのが愉快だ。只主人の清閑を妨げるのでは無いかと云ふ事丈が気に懸かる。勿論かう云ふ機会に聞く有益な話が、どれ丈自分の為めになると云ふことは知つてゐると云つた。主人は項垂《うなだ》れて聞いてゐたが、己の詞が尽きると頭を挙げた。そしてかう云つた。お前の礼儀を厚うした返事を聞いて満足に思ふ。お前も今さう云つてゐる瞬間には、その通りに感じてゐるかも知れない。併しも少しするとお前の考が変るだらう。それはお前が一人で敷布団と被布団《きぶとん》との間に潜り込む時だ。若いものにはさう云ふ事は向くまい。殊に女に可哀《かはい》がられる若いものにはと、主人は云つた。
 女と云ふ詞を聞くと同時に、なぜだか自分にも分からぬが、さつき見て気になつた、鎖してある窓の事が思ひ出された。己は主人の顔を見た。今此座敷にゐるものは主人と己との二人切りで、給仕の黒ん坊はゐなくなつてゐる。己には天井から吊り下げてある大燭台がぶら/\と揺れてゐるやうな気がする。そして其影が壁の鏡にうつつて幾千の燭火《ともしび》になつて見える。己はもうジエンツアノの葡萄酒を随分飲んでゐる。そして今主人の何か言ふのに耳を傾けながら、ピエンツアの無花果《いちぢく》の一つを取つて皮をむいてゐる。己はその汁の多い、赤い肉がひどく好きなのだ。
 主人の詞が己の耳には妙に聞える。なんだか己の前にゐる主人の口から出るのではなくて、遠い所から聞えて来るやうだ。周囲の壁に嵌めてある許多《あまた》の鏡から反射してゐる大勢の主人が物を言つてゐるやうにも思はれる。それにその詞の中で己に提供してゐる事柄には、己は随分驚かされた。尤《もつとも》当時の己の意識は此驚きをもはつきり領
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