の苦味のある香《か》と、柑子《かうじ》の木の砂糖のやうに甘い匂とを吸つてゐた。
 己は此二様の香気を嗅いでゐるうちに、ふと妙な事に気が附いた。それは別荘の窓は悉《こと/″\》く開け放つてあるのに、只一箇所の窓丈鎖してあると云ふ事である。熟《よ》く視れば、この二つの窓は重げな扉で厳重に閉ぢてある。全体の正面は開けた窓の硝子《ガラス》に日光がさして光つてゐる。この二つの密閉した窓丈が暗い。なぜだらうか。己が怪訝《くわいが》の念を禁じ得ずして立つてゐると、己の肩の上に誰やらの手が置かれた。それは主人バルヂピエロの手であつた。主人は今一つの手には己のために書いた紹介状を持つてゐて、それを己にわたした。

     二

 己は礼を言つて、すぐに出立しようとした。まだノレツタまで往つて泊られる丈の日足は十分あつたのだ。ところが意外にも主人は己を留《と》めて一晩泊らせようと云つた。己はとう/\主人の意に任せることにして、それから二人で庭を歩いた。主人は己にまだ見なかつた所々を案内して見せた。主人の花紋のある長い上衣の褄が、砂の上を曳いてゐる。そして手には長い杖を衝いてゐて、折々その握りの処を歯で噬《か》む癖がある。
 バルヂピエロはまだ杖に縋つて歩くやうな体では無い。綺麗に剃つた頬に刈株のやうな白い髯の尖が出掛かつてはゐるが、体は丈夫でしつかりしてゐる。己達は緑の木立に囲まれた立像の前に足を駐めた。主人はその裸体を褒めたが、其|詞《ことば》は此人が形の美を解してゐると云ふことを証する詞であつた。その外主人は杖の握りに附いてゐる森のニンフをも褒めたが、その褒めかたに己は殊に感服した。そのニンフの彫物《ほりもの》は、主人の太い、荒々しい手で握つてゐる杖の頭《かしら》に附いてゐて、指の間からはそれを鋳た黄金《わうごん》がきら附いてゐるのである。
 そのうち食事の時刻になつた。奢《おごり》を極めた食事で、随分時間が長く掛かつた。己達の食卓に就いたのは、周囲の壁に鏡を為込《しこ》んだ円形の大広間であつた。給仕は黒ん坊で、黙つて音もさせずに出たり這入つたりする。その影が鏡にうつつて、不思議に大勢に見えるので、己はなんだか物に魅せられたやうな心持がした。黒ん坊は※[#「糸へん+求」、第4水準2−84−28、91−下−7]《ちゞ》れた毛の上に黄絹《きぎぬ》の帽を被《かぶ》つてゐる。帽の上には鷺
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