《あまた》の景物目睫の間に聚まりたれば、始めてこゝに來しものゝ應接に遑《いとま》なきも宜《うべ》なり。されど我胸には縱ひいかなる境に遊びても、あだなる美觀に心をば動さじの誓ありて、つねに我を襲ふ外物を遮り留めたりき。
余が鈴索《すずなは》を引き鳴らして謁を通じ、おほやけの紹介状を出だして東來の意を告げし普魯西《プロシヤ》の官員は、皆快く余を迎へ、公使館よりの手つゞきだに事なく濟みたらましかば、何事にもあれ、教へもし傳へもせむと約しき。喜ばしきは、わが故里にて、獨逸、佛蘭西の語を學びしことなり。彼らは始めて余を見しとき、いづくにていつの間にかくは學び得つると問はぬことなかりき。
さて官事の暇あるごとに、かねておほやけの許をば得たりければ、ところの大學に入りて政治學を修めむと、名を簿册に記させつ。
ひと月ふた月と過す程に、おほやけの打合せも濟みて、取調も次第に捗り行けば、急ぐことをば報告書に作りて送り、さらぬをば寫し留めて、つひには幾卷をかなしけむ。大學のかたにては、穉き心に思ひ計りしが如く、政治家になるべき特科のあるべうもあらず、此か彼かと心迷ひながらも、二三の法家の講筵《かうえん》に列ることにおもひ定めて、謝金を收め、往きて聽きつ。
かくて三年ばかりは夢の如くにたちしが、時來れば包みても包みがたきは人の好尚なるらむ、余は父の遺言を守り、母の教に從ひ、人の神童なりなど褒むるが嬉しさに怠らず學びし時より、官長の善き働き手を得たりと奬《はげ》ますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、たゞ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大學の風に當りたればにや、心の中なにとなく妥《おだやか》ならず、奧深く潜みたりしまことの我は、やう/\表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。余は我身の今の世に雄飛すべき政治家になるにも宜しからず、また善く法典を諳《そらん》じて獄を斷ずる法律家になるにもふさはしからざるを悟りたりと思ひぬ。
余は私《ひそか》に思ふやう、我母は余を活きたる辭書となさんとし、我官長は余を活きたる法律となさんとやしけん。辭書たらむは猶ほ堪ふべけれど、法律たらんは忍ぶべからず。今までは瑣々たる問題にも、極めて丁寧にいらへしつる余が、この頃より官長に寄する書には連りに法制の細目に※[#「てへん+勾」、第3水準1−84−72]《かかづら》ふべきにあらぬを論じて、一たび法の精神をだに得たらんには、紛々たる萬事は破竹の如くなるべしなどゝ廣言しつ。又大學にては法科の講筵を餘所にして、歴史文學に心を寄せ、漸く蔗を嚼《か》む境に入りぬ。
官長はもと心のまゝに用ゐるべき器械をこそ作らんとしたりけめ。獨立の思想を懷きて、人なみならぬ面もちしたる男をいかでか喜ぶべき。危きは余が當時の地位なりけり。されどこれのみにては、なほ我地位を覆へすに足らざりけんを、日比《ひごろ》伯林《ベルリン》の留學生の中にて、或る勢力ある一群と余との間に、面白からぬ關係ありて、彼人々は余を猜疑し、又遂に余を讒誣《ざんぶ》するに至りぬ。されどこれとても其故なくてやは。
彼人々は余が倶に麥酒の杯をも擧げず、球突きの棒《キユウ》をも取らぬを、かたくななる心と慾を制する力とに歸して、且は嘲り且は嫉みたりけん。されどこは余を知らねばなり。嗚呼、此故よしは、我身だに知らざりしを、怎《いか》でか人に知らるべき。わが心はかの合歡《ねむ》といふ木の葉に似て、物觸れば縮みて避けんとす。我心は處女に似たり。余が幼き頃より長者の教を守りて、學の道をたどりしも、仕の道をあゆみしも、皆な勇氣ありて能くしたるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも、皆な自ら欺き、人をさへ欺きつるにて、人のたどらせたる道を、唯だ一條にたどりしのみ。餘所に心の亂れざりしは、外物を棄てゝ顧みぬ程の勇氣ありしにあらず、唯外物に恐れて自らわが手足を縛せしのみ。故郷を立ちいづる前にも、我が有爲の人物なることを疑はず、又我心の能く耐へんことをも深く信じたりき。嗚呼、彼も一時。舟の横濱を離るゝまでは、天晴豪傑と思ひし身も、せきあへぬ涙に手巾を濡らしつるを我れ乍ら怪しと思ひしが、これぞなか/\に我本性なりける。此心は生れながらにやありけん、又早く父を失ひて母の手に育てられしによりてや生じけん。
彼人々の嘲るはさることなり。されど嫉むはおろかならずや。この弱くふびんなる心を。
赤く白く面を塗りて、赫然たる色の衣を纒ひ、珈琲店に坐して客を延《ひ》く女を見ては、往きてこれに就かん勇氣なく、高き帽を戴き、眼鏡に鼻を挾ませて、普魯西にては貴族めきたる鼻音にて物言ふ「レエベマン」を見ては、往きてこれと遊ばん勇氣なし。此等の勇氣なければ、彼活溌なる同郷の人々と交らんやうもなし。この交際の
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