或る日伯は突然われに向ひて、「余は明旦、魯西亞《ロシア》に向ひて出發すべし。隨ひて來べきか、」と問ふ。余は數日間、かの公務に遑なき相澤を見ざりしかば、此問は不意に余を驚かしつ。「いかで命に從はざらむ。」余は我耻を表はさん。此答はいち早く決斷して言ひしにあらず。余はおのれが信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟の間、其答の範圍を善くも量らず、直ちにうべなふことあり。さてうべなひし上にて、其爲し難きに心づきても、強て當時の心虚なりしを掩ひ隱し、耐忍してこれを實行すること屡※[#二の字点、1−2−22]なり。
この日は飜譯の代《しろ》に、旅費さへ添へて賜はりしを持て歸りて、飜譯の代をばエリスに預けつ。これにて魯西亞より歸り來んまでの費《つひえ》をば支へつべし。彼は醫者に見せしに常ならぬ身なりといふ。貧血の性なりしゆゑ、幾月か心づかでありけん。座頭よりは休むことのあまりに久しければ籍を除きぬと言ひおこせつ。まだ一月ばかりなるに、かく嚴しきは故あればなるべし。旅立の事にはいたく心を惱ますとも見えず。僞りなき我心を厚く信じたれば。
鐵路にては遠くもあらぬ旅なれば、用意とてもなし。身に合せて借りたる黒き禮服、新に買求めたるゴタ板の魯廷《ろてい》の貴族譜、二三種の辭書などを、小「カバン」に入れたるのみ。流石に心細きことのみ多きこの程なれば、出で行く跡に殘らんも物憂かるべく、又停車場にて涙こぼしなどしたらんには影護《うしろめた》かるべければとて、翌朝早くエリスをば母につけて知る人がり出しやりつ。余は旅裝整へて戸を鎖し、鍵をば入口に住む靴屋の主人に預けて出でぬ。
魯國行につきては、何事をか敍すべき。わが舌人たる任務は忽地に余を拉し去りて、青雲の上に墮したり。余が大臣の一行に隨ひて、ペエテルブルクに在りし間に余を圍繞《ゐねう》せしは、巴里絶頂の驕奢を、氷雪の裡に移したる王城の粧飾、故《ことさ》らに黄蝋の燭を幾つ共なく點したるに、幾星の勳章、幾枝の「エポレツト」が映射する光、彫鏤の工《たくみ》を盡したる「カミン」の火に寒さを忘れて使ふ宮女の扇の閃きなどにて、この間佛蘭西語を最も圓滑に使ふものはわれなるがゆゑに、賓主の間に周旋して事を辨ずるものもまた多くは余なりき。
この間余はエリスを忘れざりき、否、彼は日毎に書を寄せしかばえ忘れざりき。余が立ちし日には、いつになく獨りにて燈火に向はん事の心憂さに、知る人の許にて夜に入るまでもの語りし、疲るゝを待ちて家に還り、直ちにいねつ。次の朝目醒めし時は、猶獨り跡に殘りしことを夢にはあらずやと思ひぬ。起き出でし時の心細さ、かゝる思ひをば、生計《たつき》に苦みて、けふの日の食なかりし折にもせざりき。これ彼が第一の書《ふみ》の略《あらまし》なり。
又程經てのふみは頗る思ひせまりて書きたる如くなりき。文をば否といふ字にて起したり。否、君を思ふ心の深き底《そこひ》をば今ぞ知りぬる。君は故里に頼もしき族《やから》なしとのたまへば、此地に善き世渡のたつきあらば、留り玉はぬことやはある。又我愛もて繋ぎ留めでは止まじ。それも※[#「りっしんべん+(はこがまえ<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》はで東に還り玉はんとならば、親と共に往かんは易けれど、か程に多き路用を何處よりか得ん。怎《いか》なる業をなしても此地に留りて、君が世に出で玉はん日をこそ待ためと常には思ひしが、暫しの旅とて立出で玉ひしより此二十日ばかり、別離の思は日にけに茂りゆくのみ。袂を分つはたゞ一瞬の苦艱なりと思ひしは迷なりけり。我身の常ならぬが漸くにしるくなれる、それさへあるに、縱令いかなることありとも、我をば努《ゆめ》な棄て玉ひそ。母とはいたく爭ひぬ。されど我身の過ぎし頃には似で思ひ定めたるを見て心折れぬ。わが東に往かん日には、ステツチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんとぞいふなる。書きおくり玉ひし如く、大臣の君に重く用ゐられ玉はゞ、我路用の金は兎も角もなりなん。今は只管《ひたすら》君がベルリンにかへり玉はん日を待つのみ。
嗚呼、余はこの書を見て始めて我地位を明視し得たり。耻かしきはわが鈍き心なり。余は我身一つの進退につきても、また我身に係らぬ他人の事につきても、決斷ありと自ら心に誇りしが、此決斷は順境にのみありて、逆境にはあらず。我と人との關係を照さんとするときは、頼みし胸中の鏡は曇りたり。
大臣は既に我に厚し。されどわが近眼は唯だおのれが盡したる職分をのみ見き。余はこれに未來の望を繋ぐことには、神も知るらむ、絶えて想到らざりき。されど今こゝに心づきて、我心は猶ほ冷然たりし歟《か》。先に友の勸めしときは、大臣の信用は屋上の禽の如くなりしが、今は稍※[#二の字点、1−2−22]これを得たるかと思はるゝに、相澤がこの頃
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