書官たりしが、余が免官の官報に出でしを見て、某新聞紙の編輯長に説きて、余を社の通信員となし、伯林に留まりて政治學藝の事などを報道せしむることとなしつ。
社の報酬はいふに足らぬほどなれど、棲家をもうつし、午餐《ひるげ》に往く食店《たべものみせ》をもかへたらんには、微なる暮しは立つべし。兎角思案する程に、心の誠を顯はして、助の綱をわれに投げ掛けしはエリスなりき。かれはいかに母を説き動かしけん、余は彼等親子の家に寄寓することとなり、エリスと余とはいつよりとはなしに、有るか無きかの收入を合せて、憂きがなかにも樂しき月日を送りぬ。
朝の※[#「口+加」、第3水準1−14−93]※[#「口+非」、第4水準2−4−8]果つれば、彼は温習に往き、さらぬ日には家に留まりて、余はキヨオニヒ街の間口せまく奧行のみいと長き休息所に赴き、あらゆる新聞を讀み、鉛筆取り出でゝ彼此と材料を集む。この截《き》り開きたる引※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]より光を取れる室にて、定りたる業なき若人、多くもあらぬ金を人に借して己れは遊び暮す老人、取引所の業の隙を偸みて足を休むる商人などゝ臂を並べ、冷なる石卓の上にて、忙はしげに筆を走らせ、小をんなが持て來る一盞《ひとつき》の※[#「口+加」、第3水準1−14−93]※[#「口+非」、第4水準2−4−8]の冷むるをも顧みず、明きたる新聞の細長き板ぎれに挿みたるを、幾種となく掛け聨《つら》ねたるかたへの壁に、いく度となく往來する日本人を、知らぬ人は何とか見けん。また一時近くなるほどに、温習に往きたる日には返り路によぎりて、余と倶に店を立出づるこの常ならず輕き、掌上の舞をもなしえつべき少女を、怪み見送る人もありしなるべし。
我學問は荒みぬ。屋根裏の一燈微に燃えて、エリスが劇場よりかへりて、椅《いす》に寄りて縫ものなどする側の机にて、余は新聞の原稿を書けり。昔しの法令條目の枯葉を紙上に掻寄せしとは殊にて、今は活溌々たる政界の運動、文學美術に係る新現象の批評など、彼此と結びあはせて、力の及ばん限り、ビヨルネよりは寧ろハイネを學びて思を構へ、樣々の文を作りし中にも、引續きて維廉《ヰルヘルム》一世と佛得力《フレデリツク》三世との崩※[#「歹+且」、第3水準1−86−38]《ほうそ》ありて、新帝の即位、ビスマルク侯の進退如何などの事に就ては、故らに詳かなる報告をなしき。さればこの頃よりは思ひしよりも忙はしくして、多くもあらぬ藏書を繙《ひもと》き、舊業をたづぬることも難く、大學の籍はまだ刪《けづ》られねど、謝金を收むることの難ければ、唯だ一つにしたる講筵だに往きて聽くことは稀なりき。
我學問は荒みぬ。されど余は別に一種の見識を長じき。そをいかにといふに、凡そ民間學の流布したることは、歐洲諸國の間にて獨逸に若くはなからん。幾百種の新聞雜誌に散見する議論には頗る高尚なるも多きを、余は通信員となりし日より、曾て大學に繁く通ひし折、養ひ得たる一隻の眼孔もて、讀みては又讀み、寫しては又寫す程に、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、自ら綜括的になりて、同郷の留學生などの大かたは、夢にも知らぬ境地に到りぬ。彼等の仲間には獨逸新聞の社説をだに善くはえ讀まぬがあるに。
明治廿一年の冬は來にけり。表街の人道にてこそ沙をも蒔け、※[#「金+挿のつくり」、10−上−12]《すき》をも揮へ、クロステル街のあたりは凸凹|坎※[#「土へん+可」、第3水準1−15−40]《かんか》の處は見ゆめれど、表のみは一面に氷りて、朝に戸を開けば飢ゑ凍えし雀の落ちて死にたるも哀れなり。室を温め、竈に火を焚きつけても、壁の石を徹し、衣の綿を穿つ北歐羅巴の寒さは、なか/\に堪へがたかり。エリスは二三日前の夜、舞臺にて卒倒しつとて、人に扶けられて歸り來しが、それより心地あしとて休み、もの食ふごとに吐くを、惡阻《つはり》といふものならんと始めて心づきしは母なりき。嗚呼、さらぬだに覺束なきは我身の行末なるに、若し眞なりせばいかにせまし。
今朝は日曜なれば家に在れど、心は樂しからず。エリスは床に臥すほどにはあらねど、小き鐵爐の畔に椅子さし寄せて言葉|寡《すくな》し。この時戸口に人の聲して、程なく庖厨にありしエリスが母は、郵便の書状を持て來て余にわたしつ。見れば見覺えある相澤が手なるに、郵便切手は普魯西のものにて、消印には伯林とあり。訝りつゝも披《ひら》きて讀めば、とみの事にて預め知らするに由なかりしが、昨夜こゝに着せられし天方大臣に附きてわれも來たり。伯の汝を見まほしとのたまふに疾く來よ。汝が名譽を恢復するも此時にあるべきぞ。心のみ急がれて用事をのみいひ遣るとなり。讀み畢りて茫然たる面もちを見て、エリス云ふ。「故郷よりの文なりや。惡しき便にてはよも。」彼は例の新聞社の報酬
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