準1−84−72]《かかづら》ふべきにあらぬを論じて、一たび法の精神をだに得たらんには、紛々たる萬事は破竹の如くなるべしなどゝ廣言しつ。又大學にては法科の講筵を餘所にして、歴史文學に心を寄せ、漸く蔗を嚼《か》む境に入りぬ。
官長はもと心のまゝに用ゐるべき器械をこそ作らんとしたりけめ。獨立の思想を懷きて、人なみならぬ面もちしたる男をいかでか喜ぶべき。危きは余が當時の地位なりけり。されどこれのみにては、なほ我地位を覆へすに足らざりけんを、日比《ひごろ》伯林《ベルリン》の留學生の中にて、或る勢力ある一群と余との間に、面白からぬ關係ありて、彼人々は余を猜疑し、又遂に余を讒誣《ざんぶ》するに至りぬ。されどこれとても其故なくてやは。
彼人々は余が倶に麥酒の杯をも擧げず、球突きの棒《キユウ》をも取らぬを、かたくななる心と慾を制する力とに歸して、且は嘲り且は嫉みたりけん。されどこは余を知らねばなり。嗚呼、此故よしは、我身だに知らざりしを、怎《いか》でか人に知らるべき。わが心はかの合歡《ねむ》といふ木の葉に似て、物觸れば縮みて避けんとす。我心は處女に似たり。余が幼き頃より長者の教を守りて、學の道をたどりしも、仕の道をあゆみしも、皆な勇氣ありて能くしたるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも、皆な自ら欺き、人をさへ欺きつるにて、人のたどらせたる道を、唯だ一條にたどりしのみ。餘所に心の亂れざりしは、外物を棄てゝ顧みぬ程の勇氣ありしにあらず、唯外物に恐れて自らわが手足を縛せしのみ。故郷を立ちいづる前にも、我が有爲の人物なることを疑はず、又我心の能く耐へんことをも深く信じたりき。嗚呼、彼も一時。舟の横濱を離るゝまでは、天晴豪傑と思ひし身も、せきあへぬ涙に手巾を濡らしつるを我れ乍ら怪しと思ひしが、これぞなか/\に我本性なりける。此心は生れながらにやありけん、又早く父を失ひて母の手に育てられしによりてや生じけん。
彼人々の嘲るはさることなり。されど嫉むはおろかならずや。この弱くふびんなる心を。
赤く白く面を塗りて、赫然たる色の衣を纒ひ、珈琲店に坐して客を延《ひ》く女を見ては、往きてこれに就かん勇氣なく、高き帽を戴き、眼鏡に鼻を挾ませて、普魯西にては貴族めきたる鼻音にて物言ふ「レエベマン」を見ては、往きてこれと遊ばん勇氣なし。此等の勇氣なければ、彼活溌なる同郷の人々と交らんやうもなし。この交際の
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