名をばなのらせ玉はじ。」彼は頭を垂れたり。「穉しと笑ひ玉はんが、寺に入らん日はいかに嬉しからまし。」見上げたる目には涙滿ちたり。
 二三日の間は大臣をも、たびの疲れやおはさんとて敢て訪《とぶ》らはず、家にのみ籠り居しが、或る日の夕暮使して招かれぬ。往きて見れば待遇殊にめでたく、魯西亞行の勞を問ひ慰めて後、われと共に東にかへる心なきか、君が學問こそわが測り知る所ならね、語學のみにて世の用には足りなむ、滯留の餘りに久しければ、樣々の係累もやあらんと、相澤に問ひしに、さることなしと聞きて落居たりと宣ふ。其氣色辭むべくもあらず。あなやと思ひしが、流石に相澤の言を僞なりともいひ難きに、若しこの手にしも縋らずば、本國をも失ひ、名譽を挽きかへさん道をも絶ち、身はこの廣漠たる歐洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起れり。嗚呼、何等の特操なき心ぞ、「承はり侍り」と應へたるは。
 黒がねの額《ぬか》はありとも、歸りてエリスに何とかいはん。「ホテル」を出でしときの我心の錯亂は、譬へんに物なかりき。余は道の東西をも分かず、思に沈みて行く程に、往きあふ馬車の馭丁に幾度か叱せられ、驚きて飛びのきつ。暫くしてふとあたりを見れば、獸苑の傍に出でたり。倒るゝ如くに路の邊の榻《こしかけ》に倚りて、灼くが如く熱し、椎《つち》にて打たるゝ如く響く頭を榻背《たふはい》に持たせ、死したる如きさまにて幾時をか過しけん。劇しき寒さ骨に徹すと覺えて醒めし時は、夜に入りて雪は繁く降り、帽の庇、外套の肩には一寸許も積りたりき。
 最早十一時をや過ぎけん、モハビツト、カルヽ街通ひの鐵道馬車の軌道も雪に埋もれ、ブランデンブルゲル門の畔の瓦斯燈は寂しき光を放ちたり。立ち上らんとするに足の凍えたれば、兩手にて擦りて、漸やく歩み得る程にはなりぬ。
 足の運びの捗らねば、クロステル街まで來しときは、半夜をや過ぎたりけん。こゝ迄來し道をばいかに歩みしか知らず。一月上旬の夜なれば、ウンテル、デン、リンデンの酒家、茶店は猶ほ人の出入盛りにて賑はしかりしならめど、ふつに覺えず。我腦中には唯※[#二の字点、1−2−22]我は免《ゆる》すべからぬ罪人なりと思ふ心のみ滿ち/\たりき。
 四階の屋根裏には、エリスはまだ寢《い》ねずと覺ぼしく、烱然《けいぜん》たる一星の火、暗き空にすかせば、明かに見ゆるが、降りしきる鷺の如き雪片に、乍《
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