告をなしき。さればこの頃よりは思ひしよりも忙はしくして、多くもあらぬ藏書を繙《ひもと》き、舊業をたづぬることも難く、大學の籍はまだ刪《けづ》られねど、謝金を收むることの難ければ、唯だ一つにしたる講筵だに往きて聽くことは稀なりき。
 我學問は荒みぬ。されど余は別に一種の見識を長じき。そをいかにといふに、凡そ民間學の流布したることは、歐洲諸國の間にて獨逸に若くはなからん。幾百種の新聞雜誌に散見する議論には頗る高尚なるも多きを、余は通信員となりし日より、曾て大學に繁く通ひし折、養ひ得たる一隻の眼孔もて、讀みては又讀み、寫しては又寫す程に、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、自ら綜括的になりて、同郷の留學生などの大かたは、夢にも知らぬ境地に到りぬ。彼等の仲間には獨逸新聞の社説をだに善くはえ讀まぬがあるに。
 明治廿一年の冬は來にけり。表街の人道にてこそ沙をも蒔け、※[#「金+挿のつくり」、10−上−12]《すき》をも揮へ、クロステル街のあたりは凸凹|坎※[#「土へん+可」、第3水準1−15−40]《かんか》の處は見ゆめれど、表のみは一面に氷りて、朝に戸を開けば飢ゑ凍えし雀の落ちて死にたるも哀れなり。室を温め、竈に火を焚きつけても、壁の石を徹し、衣の綿を穿つ北歐羅巴の寒さは、なか/\に堪へがたかり。エリスは二三日前の夜、舞臺にて卒倒しつとて、人に扶けられて歸り來しが、それより心地あしとて休み、もの食ふごとに吐くを、惡阻《つはり》といふものならんと始めて心づきしは母なりき。嗚呼、さらぬだに覺束なきは我身の行末なるに、若し眞なりせばいかにせまし。
 今朝は日曜なれば家に在れど、心は樂しからず。エリスは床に臥すほどにはあらねど、小き鐵爐の畔に椅子さし寄せて言葉|寡《すくな》し。この時戸口に人の聲して、程なく庖厨にありしエリスが母は、郵便の書状を持て來て余にわたしつ。見れば見覺えある相澤が手なるに、郵便切手は普魯西のものにて、消印には伯林とあり。訝りつゝも披《ひら》きて讀めば、とみの事にて預め知らするに由なかりしが、昨夜こゝに着せられし天方大臣に附きてわれも來たり。伯の汝を見まほしとのたまふに疾く來よ。汝が名譽を恢復するも此時にあるべきぞ。心のみ急がれて用事をのみいひ遣るとなり。讀み畢りて茫然たる面もちを見て、エリス云ふ。「故郷よりの文なりや。惡しき便にてはよも。」彼は例の新聞社の報酬
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