久しければ、様々の係累もやあらんと、相沢に問ひしに、さることなしと聞きて落居《おちゐ》たりと宣ふ。其気色|辞《いな》むべくもあらず。あなやと思ひしが、流石に相沢の言《こと》を偽なりともいひ難きに、若しこの手にしも縋《すが》らずば、本国をも失ひ、名誉を挽《ひ》きかへさん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝《つ》いて起れり。嗚呼、何等の特操なき心ぞ、「承《うけたま》はり侍《はべ》り」と応《こた》へたるは。
 黒がねの額《ぬか》はありとも、帰りてエリスに何とかいはん。「ホテル」を出でしときの我心の錯乱は、譬《たと》へんに物なかりき。余は道の東西をも分かず、思に沈みて行く程に、往きあふ馬車の馭丁に幾度か叱《しつ》せられ、驚きて飛びのきつ。暫くしてふとあたりを見れば、獣苑の傍《かたはら》に出でたり。倒るゝ如くに路の辺《べ》の榻《こしかけ》に倚りて、灼くが如く熱し、椎《つち》にて打たるゝ如く響く頭《かしら》を榻背《たふはい》に持たせ、死したる如きさまにて幾時をか過しけん。劇しき寒さ骨に徹すと覚えて醒めし時は、夜に入りて雪は繁く降り、帽の庇《ひさし》、外套の肩には一寸|許《ばかり》も積りたりき。
 最早《もはや》十一時をや過ぎけん、モハビツト、カルヽ街通ひの鉄道馬車の軌道も雪に埋もれ、ブランデンブルゲル門の畔《ほとり》の瓦斯燈《ガスとう》は寂しき光を放ちたり。立ち上らんとするに足の凍えたれば、両手にて擦《さす》りて、漸やく歩み得る程にはなりぬ。
 足の運びの捗《はかど》らねば、クロステル街まで来しときは、半夜をや過ぎたりけん。こゝ迄来し道をばいかに歩みしか知らず。一月上旬の夜なれば、ウンテル、デン、リンデンの酒家、茶店は猶ほ人の出入盛りにて賑《にぎ》はしかりしならめど、ふつに覚えず。我脳中には唯※[#二の字点、1−2−22]我は免《ゆる》すべからぬ罪人なりと思ふ心のみ満ち/\たりき。
 四階の屋根裏には、エリスはまだ寝《い》ねずと覚《お》ぼしく、烱然《けいぜん》たる一星の火、暗き空にすかせば、明かに見ゆるが、降りしきる鷺の如き雪片に、乍《たちま》ち掩はれ、乍ちまた顕れて、風に弄《もてあそ》ばるゝに似たり。戸口に入りしより疲を覚えて、身の節の痛み堪へ難ければ、這《は》ふ如くに梯を登りつ。庖厨《はうちゆう》を過ぎ、室の戸を開きて入りしに、机に倚り
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