て縫ものなどする側の机にて、余は新聞の原稿を書けり。昔しの法令条目の枯葉を紙上に掻寄《かきよ》せしとは殊にて、今は活溌々たる政界の運動、文学美術に係る新現象の批評など、彼此と結びあはせて、力の及ばん限り、ビヨルネよりは寧ろハイネを学びて思を構へ、様々の文《ふみ》を作りし中にも、引続きて維廉《ヰルヘルム》一世と仏得力《フレデリツク》三世との崩※[#「歹+且」、第3水準1−86−38]《ほうそ》ありて、新帝の即位、ビスマルク侯の進退|如何《いかん》などの事に就ては、故《ことさ》らに詳《つまびら》かなる報告をなしき。さればこの頃よりは思ひしよりも忙はしくして、多くもあらぬ蔵書を繙《ひもと》き、旧業をたづぬることも難く、大学の籍はまだ刪《けづ》られねど、謝金を収むることの難ければ、唯だ一つにしたる講筵だに往きて聴くことは稀なりき。
我学問は荒みぬ。されど余は別に一種の見識を長じき。そをいかにといふに、凡《およ》そ民間学の流布《るふ》したることは、欧洲諸国の間にて独逸に若《し》くはなからん。幾百種の新聞雑誌に散見する議論には頗《すこぶ》る高尚なるもの多きを、余は通信員となりし日より、曾《かつ》て大学に繁く通ひし折、養ひ得たる一隻の眼孔もて、読みては又読み、写しては又写す程に、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、自《おのづか》ら綜括的になりて、同郷の留学生などの大かたは、夢にも知らぬ境地に到りぬ。彼等の仲間には独逸新聞の社説をだに善くはえ読まぬがあるに。
明治廿一年の冬は来にけり。表街《おもてまち》の人道にてこそ沙《すな》をも蒔《ま》け、※[#「金+※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]のつくり」、161−下−29]《すき》をも揮へ、クロステル街のあたりは凸凹《とつあふ》坎※[#「土へん+可」、第3水準1−15−40]《かんか》の処は見ゆめれど、表のみは一面に氷りて、朝に戸を開けば飢ゑ凍《こゞ》えし雀の落ちて死にたるも哀れなり。室《へや》を温め、竈に火を焚きつけても、壁の石を徹し、衣の綿を穿《うが》つ北欧羅巴の寒さは、なか/\に堪へがたかり。エリスは二三日前の夜、舞台にて卒倒しつとて、人に扶《たす》けられて帰り来しが、それより心地あしとて休み、もの食ふごとに吐くを、悪阻《つはり》といふものならんと始めて心づきしは母なりき。嗚呼、さらぬだに覚束
前へ
次へ
全20ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング