き給金を析《さ》きて還し参らせん。縦令《よしや》我身は食《くら》はずとも。それもならずば母の言葉に。」彼は涙ぐみて身をふるはせたり。その見上げたる目《まみ》には、人に否《いな》とはいはせぬ媚態あり。この目の働きは知りてするにや、又自らは知らぬにや。
我が隠しには二三「マルク」の銀貨あれど、それにて足るべくもあらねば、余は時計をはづして机の上に置きぬ。「これにて一時の急を凌《しの》ぎ玉へ。質屋の使のモンビシユウ街三番地にて太田と尋ね来《こ》ん折には価を取らすべきに。」
少女は驚き感ぜしさま見えて、余が辞別《わかれ》のために出《いだ》したる手を唇にあてたるが、はら/\と落つる熱き涙《なんだ》を我手の背《そびら》に濺《そゝ》ぎつ。
嗚呼、何等の悪因ぞ。この恩を謝せんとて、自ら我|僑居《けうきよ》に来《こ》し少女は、シヨオペンハウエルを右にし、シルレルを左にして、終日《ひねもす》兀坐《こつざ》する我読書の※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]下《さうか》に、一輪の名花を咲かせてけり。この時を始として、余と少女との交《まじはり》漸く繁くなりもて行きて、同郷人にさへ知られぬれば、彼等は速了《そくれう》にも、余を以《も》て色を舞姫の群に漁《ぎよ》するものとしたり。われ等|二人《ふたり》の間にはまだ痴※[#「馬+矣」、第3水準1−94−13]《ちがい》なる歓楽のみ存したりしを。
その名を斥《さ》さんは憚《はゞかり》あれど、同郷人の中に事を好む人ありて、余が屡※[#二の字点、1−2−22]《しば/\》芝居に出入して、女優と交るといふことを、官長の許《もと》に報じつ。さらぬだに余が頗《すこぶ》る学問の岐路《きろ》に走るを知りて憎み思ひし官長は、遂に旨を公使館に伝へて、我官を免じ、我職を解いたり。公使がこの命を伝ふる時余に謂《い》ひしは、御身《おんみ》若し即時に郷に帰らば、路用を給すべけれど、若し猶こゝに在らんには、公の助をば仰ぐべからずとのことなりき。余は一週日の猶予を請ひて、とやかうと思ひ煩ふうち、我生涯にて尤《もつと》も悲痛を覚えさせたる二通の書状に接しぬ。この二通は殆ど同時にいだしゝものなれど、一は母の自筆、一は親族なる某《なにがし》が、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたる書《ふみ》なりき。余は母の書中の言をこゝに反覆するに堪へず、涙の迫り来て筆の運《はこび》を
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