たかずに戸をあけて、給仕が出て来た。
「お食事がよろしゅうございます」
「ここは日本だ」と繰り返しながら渡辺はたって、女を食卓のある室へ案内した。ちょうど電燈がぱっとついた。
 女はあたりを見廻して、食卓の向う側にすわりながら、「シャンブル・セパレエ」と笑談《じょうだん》のような調子でいって、渡辺がどんな顔をするかと思うらしく、背伸びをしてのぞいてみた。盛花《もりばな》の籠が邪魔になるのである。
「偶然似ているのだ」渡辺は平気で答えた。
 シェリイを注ぐ。メロンが出る。二人の客に三人の給仕が附ききりである。渡辺は「給仕のにぎやかなのをご覧」と附け加えた。
「あまり気がきかないようね。愛宕山もやっぱりそうだわ」肘《ひじ》を張るようにして、メロンの肉をはがして食べながらいう。
「愛宕山では邪魔だろう」
「まるで見当違いだわ。それはそうと、メロンはおいしいことね」
「いまにアメリカへ行くと、毎朝きまって食べさせられるのだ」
 二人はなんの意味もない話をして食事をしている。とうとうサラドの附いたものが出て、杯にはシャンパニエが注がれた。
 女が突然「あなた少しも妬《ねた》んではくださらないのね」といった。チェントラアルテアアテルがはねて、ブリュウル石階の上の料理屋の卓に、ちょうどこんなふうに向き合ってすわっていて、おこったり、なかなおりをしたりした昔のことを、意味のない話をしていながらも、女は想い浮かべずにはいられなかったのである。女は笑談のようにいおうと心に思ったのが、はからずも真面目に声に出たので、くやしいような心持がした。
 渡辺はすわったままに、シャンパニエの杯を盛花より高くあげて、はっきりした声でいった。
“Kosinski《コジンスキイ》 soll《ゾル》 leben《レエベン》 !”
 凝り固まったような微笑を顔に見せて、黙ってシャンパニエの杯をあげた女の手は、人には知れぬほど顫《ふる》っていた。

     ×    ×    ×

 まだ八時半ごろであった。燈火の海のような銀座通りを横切って、ウェエルに深く面《おもて》を包んだ女をのせた、一輛の寂しい車が芝の方へ駈けて行った。
[#地から1字上げ]明治四十三年六月



底本:「日本の文学 2 森鴎外(一)」中央公論社
   1966(昭和41)年1月5日初版発行
   1972(昭和47)年3月25日19版発行
初出:「三田文学」
   1910(明治43)年6月
入力:土屋隆
校正:小林繁雄
2005年10月5日作成
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